揺蕩う射干玉の御髪の我が手に留まるは玉響








此の髪を絡め取り其の指に絡め取られ



此処は許昌、時の丞相である曹操が築いた、恐らく当世一の都。
人が溢れ、交易や商売が盛んに行われる城下が広がる。
其の活気に満ちた街の中心である絢爛な建物こそ、曹操がおわす城である。
誰もが入ることが叶う訳ではない、遠くから眺めることも恐れ多いと、この美しい城は主張しているようだ。
帝の信任を得―――否、其の権力を掌握した曹操の目に止まり、彼の城に出入りするということは、最も名誉なことであると言ったのは此の城内を行き来する人々か、彼等に憧れる人々か。
しかし名誉とは、個人の感じ方に因るもの。
本人が有難いと思えば、何でも素晴らしく見えるし、押し付けだと感じれば、厄介なものにしかならない。
司馬懿にとって、曹操からの招聘は、正に押し付けだった。
齢十に満たない司馬懿の才を聞き付けた曹操は、嫌がる司馬懿を、半ば拉致の如く自らの眼前に引き摺り出した。
しかし手間を取らせた腹いせか、公衆の面前で司馬懿を辱めた曹操に、司馬懿は激しく嫌悪感を覚えた。
そんな司馬懿の前に颯爽と現れたのが、彼だった。
曹丕―――字を子桓、曹操の子である。
彼は確かな存在感を持って、司馬懿の前に降り立った。
厚顔無恥の輩を鮮やかに退けた曹丕は、司馬懿の目を釘付けにした。
それから、あの時目の前いっぱいに広がった、彼の纏う青は、常に司馬懿のゆく先にある。
あれから数年経った今でもそれは変わらない。
変わったことと言えば、己と彼との距離が少し少し縮まったことだろうか。
司馬懿が曹丕付きの役職に就いたことに伴い、二人が共にいる時間も増えたが、それだけではない。
曹丕は、司馬懿を対等な士大夫として扱う。
だからといって、不当に難題を押し付けたりもせず、しかし甘やかしもしない。
曹丕の態度は、司馬懿を至極安心させた。
大人と対等、若しくは其れ以上に渡り合う才が有るとはいえ、年端もゆかぬ童子。
曹丕の考えに触れ、共感し、反論することで、司馬懿は成長して行った。
それと同時に、司馬懿の心の奥でひっそり育まれたものもある。
曹丕に対する淡い思いは、寝ても醒めても司馬懿を悩ませ、安堵させ、支配して止まない。

「仲達に御座います、入って宜しいですか?」

「ああ、入れ」

曹丕の居室の前で声を掛ければ、間を置かず応えが返ってくる。
自由に入って良い、という許可を与えられても、決して礼を失しない司馬懿に、曹丕はいつも律儀だと笑う。

「失礼致します…曹丕殿、御機嫌麗しく存じます」

「待っていたぞ、仲達」

室内に入ると、曹丕が微笑みながら司馬懿を歓迎する。
こうして穏やかに、甘やかに名を呼ばれるだけで、愛おしさが募る。
曹丕も同じ心持ちであると知っていれば尚更だ。
司馬懿が曹丕をおとなうことで出来る昼下がりの一時は、司馬懿にとって、正に至福の時と言って良い。
兵法について議論したり、貴重な書物を読んだり、珍しい甘味や茶でゆったりと時間を過ごしたりと、その時間の使い方は様々である。
そして、それらの何れもが、有意義なものであると司馬懿は思う。

「有難き御言葉に御座居ます」

自然と笑みを浮かべて、感謝の言葉を述べていた。
他の人間には社交辞令としてしか用いない、こういった言葉も、曹丕に対してなら自然に、嫌味でなく使うことが出来る。
司馬懿にとって曹丕は、特別な存在である。
曹丕に誘われるまま奥に進み、設えられた席に着くと、茶が用意されていた。
女官も下がらせ、暫く他愛も無い話に花を咲かせていた二人だが、不意に曹丕が目を眇めて司馬懿の頭頂辺りを見つめた。
不可思議な行動に司馬懿が声を掛けようとすると、その前に曹丕が口を開いた。

「頭に埃など付けてどうした」

揶揄う様に指摘されても、暫くは得心のいかなかった司馬懿だが、ふと思い当たり、推測を述べる。

「今日は普段使われていない書庫に入ったので…曹丕殿のお部屋に伺うのに汚れていてはと一応衣服を清めたのですが」

残っていたのですね、と呟きながら、髪の毛に手を伸ばす司馬懿だが、肝心の埃の付いた場所が判らず、手を彷徨わせる。
すると、曹丕が徐に立ち上がり、司馬懿の後ろに回った。
司馬懿が戸惑っていると、前を向いていろ、と曹丕は司馬懿の動きを封じる。
その言葉に、背筋を伸ばして畏まる司馬懿に見えない様に微笑むと、曹丕は司馬懿の髪に付着した埃をそっと摘み、息を吹きかけて何処かへ飛ばしてしまった。

「有難う御座居ます」

気配で曹丕の行動に見当をつけ、感謝を述べる司馬懿だが、用件を終え、大人しく席に戻ると思った曹丕が、そっと司馬懿の簡素な冠を外してしまったのに気付くと、思わず振り向いた。
しかし、顎をしゃくって前を向くよう促す曹丕に、司馬懿は抗えない。

「曹丕殿…?」

「髪が解れている、ついでに直してやろう」

「そんな…!そのような事をして頂く訳には…!」

「私がやりたいのだ、大人しく弄られよ」

焦る司馬懿に対して、愉快そうな曹丕である。
何を言っても聞くまいと、司馬懿は大人しく前を向く。
曹丕の指は、纏められた髪を解き、下に流れる黒髪をさらりと梳く。
ゆっくりと時間をかけて、髪の毛全体を手櫛で梳かしていく曹丕に、司馬懿は何とは無しに面映くなる。
それと同時に、物足りないと思ってしまう。
何が足りないのか、と言われると困惑してしまうが。

「お前の髪は美しいな」

ぼそりと呟いた曹丕が、司馬懿の髪の毛を一房持ち上げて口付けた。
その気配を察して、司馬懿は顔が赤くなるのを感じる。

「っ…お誉め頂くには勿体無い、貧相な髪です…」

「仲達らしい謙虚な言葉だな…」

司馬懿の挙動を目に楽しみながら、曹丕が微笑ましさを滲ませ囁く。

「しかしその様子では手入れもしないのだろう?」

問い、というより肯定を求める言葉に、司馬懿も躊躇いがちに頷く。
曹丕は髪を纏め、優しい手付きで確り結い上げながら苦笑する。

「今度手入れの方法を教えてやろう」

「しかし…私などが美しく装ったところで…」

「此の艶やかな黒髪が無惨な姿になるのは惜しい…私の為にしてはくれぬか」

するりと、露になった項を曹丕の掌に撫でられ、司馬懿の体が震える。
体を走ったのは、寒気やおぞましさ等ではなく、心地良さの混じった感覚であると、曹丕は半ば確信している。

「嫌か…?」

耳元に唇を寄せて囁かれれば、頬を染めるのを見ても間違いないだろうと。
司馬懿は気付いていないが。

「いえ…曹丕殿の為…でしたら…」

己の髪を手入れすることで、曹丕に喜んで貰えるなら、と司馬懿は頬を染めながら首肯する。
しかし、曹丕は思いも因らぬことを口にした。

「私の―――公子の命令だからと言って、無理をすることはないのだぞ?」

いつも自信に満ち溢れた曹丕のものとも思えない台詞。
自嘲気味に齎された言葉に、司馬懿は勢い良く振り返り、曹丕に向かい合った。
無礼とは知りながら、睨み付ける様に曹丕の目を見据える。

「曹丕殿は私を見縊っておいでですか?」

歳上で目上の人物である曹丕に対して取る態度ではないと思いつつも、司馬懿の口は止まらない。
曹操の命だから、傍に居ると思われているのか。
曹丕が自分を見ているのは、憐れみからだけなのか。
脳裏を過ぎる考えは、そうではないと否定をしても、少しでも迷えば心に真実の如く重く圧し掛かる。
それを振り切るように、曹丕を見つめる。
厳格な儒家の家庭で教育を受けた司馬懿からは、想像もつかないのだろう、曹丕も目を丸くして司馬懿の言葉を聞いている。

「不遜であると存じていますが…私がそういった力に屈したりはしないこと、曹丕殿が一番ご存知の筈です」

丞相という、この地で最上の権力を持った人間に抗い、決して心から膝を折らなかった自分を、一番見ていたのは曹丕であると、知っていると思っていた。
自分の思い込みだったとは考えたくない。
話しながら目が潤んできた司馬懿の頭を、曹丕が撫でる。

「曹丕殿のお側に居るのは私の望みです…っ」

最後は殆ど叫ぶ様に告げられた司馬懿の言葉に、曹丕は司馬懿を優しく抱き締める。
それだけで、曹丕の心が全て知れた気がした。
曹丕の胸の辺りに顔を埋めて、司馬懿は曹丕に縋りつく。

「すまない、下らぬことを言ってしまったな…」

宥める様な手付きで背中をゆるゆると撫でられながら、司馬懿は頭を横に振る。
暫くの間、曹丕は何も言わず司馬懿を優しく抱いていてくれた。
不安に満ちていた心が晴れていく。
曹丕の腕の中で、司馬懿はそっと安堵の息を吐く。
漸く落ち着いた司馬懿の顔をそっと上向かせ、曹丕は微笑みながら囁いた。

「改めて聞くが…私の為に髪の手入れをしてくれるか…?」

「はい…」

花の様な笑顔を浮かべて迷いなく答えれば、曹丕の温かい唇が司馬懿のそれに重ねられた。



其の指に触れられ其の声で囁かれ








エンド







++++++++++

海石さんのちまい設定に乗っかって丕子司馬。
ちまい、乙女!