眼前には窓枠に切り取られた輝月。
            頬を撫でるは透き通った風。
       膝の掛け替えのない温もり。
           ―――――さて此処は古に詠う桃源郷か。















郷  壱


















「……起きられましたか」

 膝上の人が覚醒した気配に、声をかけた。 随分と密やかにしたつもりであったが、しん、と静まり返った室内にそれはよく響いた。

「…月が昇った様だな……明るい」

 眼を閉じ、窓を背にしたままで彼…曹丕は言った。 まだ宵の口であるから、昇りかけた月が開け放ったままの窓から直接光を投げかけ、床に居る二人の所まで照らしている。
 その光景を眼を細めて見遣る。 闇も今宵ばかりは恐るるべきものにはならず、藍よりも僅か濃いだけの色になった。 常なら見える星々もすっかり飲み込まれてしまい、どこにも見当たらない。

「左様で。今宵は望月の様ですな……、お陰で星を読む事が叶いませぬ」
「……無粋な」

 この様な可惜夜に謀略か、と。
 僅かに眉を顰めながら曹丕がそう零す。
 宥めるように横顔にかかる前髪を梳いて流してやると、うっすらと瞼を開けた。 深い琥珀の瞳は睫毛の陰により深みを増していた。
 指先の優しい感触が恋しいのか、手を引き寄せて鼻先をすり寄せる。

「私でございますから…仕方有りませぬ」
「そうだな…、確かにそうだ」

 肩を震わせ密やかに曹丕が笑う。 笑う度に暖かな吐息が捉えられたままの手にかかり、くすぐったさと自身のどうしようもない無粋さに私も笑った。

「……仲達、」
「はい、曹丕殿」

 未だ微睡みの中にいる曹丕の声は低く、どこか稚い。それに甘さも感じられたのは錯覚なのだろうか。 こんな声をされたら、柄でもなく何でもしてやりたくなりそうだった。

「今宵の月は如何な物か私に教えよ」
「……御自分で御覧なされませ。私の言では折角の興が削がれますぞ。 月とて風流を解す方に詩でも吟じられた方が嬉しいでしょう」

 しかし、流石にその願いばかりは頷けない。 詩の句、一つきりさえ満足に読めぬ男が、詩歌に名高く著作も数多手掛けた曹丕に何の言葉を紡げるのだろう?
 曹丕も臣下のどうしようもない無粋さは既知の事だ。 恐らくはからかってみただけであろうと、やんわり断れば、意外に本気であったらしく、罰だと言わんばかりに指を甘噛みされた。
 そして拗ねた素振りで彼は腹にすり寄ってくる。 もう三十もとうに過ぎ、四十にさえ手が届く歳だと言うのに、母親に甘える童の姿と重なった。

「…構わぬ、お前の言葉であるならば」

 意地でも己で見ないという意思表示なのか、月華に青白い光を返す黒髪を揺らした曹丕が腰を抱き寄せて顔を腹に押し当てた。 挙げ句にぐりぐりと顔を押し当て、背を丸める。

「……私の眼が届かねばお前の眼を。私の耳が聞こえねばお前の耳を。私の智が及ばねばお前の智を、」

 主が喋る度に腹に振動が伝わってくる。 しかし不思議とくぐもらず、寧ろその声は一字一句、澄んではっきりと聞こえた。 室に響いてさえいるように。

「…私に足らぬ所有らば補うのがお前であろう? お前は私のモノなのだから」
「…はい、曹丕殿」

 いつの間にか瞳を覗かせた曹丕が、私を見上げていた。唇は声を紡ぐ傍らうっすらと弧を描いていて、惹きつけられる。 言葉に肯んじれば満足そうにその弧が深まった。

「事実、これまでもそうであった。ならばこれからもそうでなくばならぬ。……そう、」

 曹丕はそこで一瞬言葉を切った。 不意の沈黙に、刹那なりとも闇が身に纏わりつき重さを感じさせさえして、嫌な予感に息を飲んだ。

「―――――私が彼方に呼ばれたとしても」

 訝る間もなく開いた唇からはその言葉が嫌にはっきり響いた。そしてひやりとした感触で身の裡に染み込んでいく。

「私の代わりに国を統べるのがお前の役目なのだ」
「っ曹丕殿、」
「私とお前の国だしな……」

 謡うような口調で語った主は、穏やかな笑みを浮かべて瞼を伏せた。 それは安らかな…まるで臨終を想起させて肝胆を寒からしめた。

「……斯様、な、」

 震え掠れそうになる声を、何とか紡ぎ出して曹丕を叱咤する。
 これ以上の言葉を聞きたくなかった。ただでさえ、臣下が君主に膝を貸す行為が、君主の臨終の時を彷彿とさせる。 強請るに強請られ、私はまだ若いから構わぬだろうと押し切られて膝を貸してしまったが、 遺言めいた言葉まで与えられたら流石に不吉すぎた。
 どくどくと煩いこの心臓の音が、彼には聞こえないのだろうか?
 恐怖に全ての神経が凍っていく司馬懿を見てうっとりと笑むのだから。

「……斯様な、凶事は仰いますな。貴方の代わりなぞ、誰に務まるものではございませぬ」
「ふ、愛い事を言う…」
「……、」

 何も返す事が叶わなかった。 彼は、そのような反応を返されるとは思ってもみなかったようで、そこで漸く困ったように眉尻を下げた。

「嗚呼、心配するな。私はまだ生きる…そうだろう?」
「………でなくば、困ります……」

 唇を引き結びながら、ようよう答えた。 恐らくは泣きそうな顔にでもなっていたのだろう、曹丕がすまないなと笑い、身を起こした。 すぐに唇を慰撫するように柔らかく食まれる。唇が温かいことに安堵した臆病な自分が許せないと思った。

「…馬鹿め、この程度で絆されるとでもお思いか」

 忌々しさに舌打ちが漏れた。 此の場に礼儀に煩い陳羣が居たら悲鳴を上げただろうそれは、予想外に響いてしまったが、 曹丕はただ愉快そうに笑うだけで不敬を糺そうともしなかった。

「ならば、どの程度なら絆されてくれる…?」

 機嫌を損ねた臣下に、彼は首を少し傾げながら問うてきた。甘やかな声音は機嫌を取ろうと佞ねようとする為か。 しかし間近で見つめてくる瞳は、色を滲ませるばかりか、遊戯の始まりとさえ書かれている。 そのまま背を抱かれれば、それは確信になった。

「…お休みになるとばかり思っておりましたが」
「健気な臣を愛でぬとは主の名折れではないか」

 臣下の皮肉とは対照的に、耳元で『褒美だ』と甘く囁かれながら、ゆるりと腰に腕が回る。 人の気も知らないで勝手な言葉ばかり吐く主に無性に苛立ちが募った。思わず掴んでしまった胸座に強く皺が寄る。 首元の留め具が取れたのだろうか、ぶつ、と鈍い耳障りな音がした。

「仲た…ッ?!」

 力任せに身を反転させてやった。油断していたせいであろうか、簡単に主が背から臥床に倒れ込んだ。 本来臣下を押し倒そうとしていた場所に倒れ込んでも、目を見張って臣下を見つめるだけで何の抵抗もない。 今の内に、と主の頭上に両の腕を纏めて抑えつけるように乗り上げる。 そこまでされて漸く事態を悟った主が下でもがく姿にほんの少しだけ溜飲が下がった。

「…この程度でなら絆されて差し上げましょう」

 肌蹴させてしまった胸元が清光に青白く光る。身を屈めて温かな肌に唇を付ければ仄か紅く変わった。











 ―――――まるで季節外れの桃花のように。










 帝郷 壱  終





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 帝郷 
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 項田園の朝日の案山子さまへの相互御礼として献上いたします。 長らくお待たせして申し訳ありませんでした!(平伏)
 当社丕…ではなく当社比50%増しでいちゃついてると思しき丕司馬丕のつもりです;
特に丕司馬丕は大好物にも関わらず、自ら書いた記憶もあまりなく…何か間違っていないか心配です;;
 このような物で宜しければ、お気に召して頂ければ幸いです…!
苦情でも何でも、何かございましたら遠慮なくお申し付けください!



2009/11/14 ikuri