この耳は好く遠くを聴く。この目は好く未来を視る。
 この心は好く忠義に従う。この命もまだ君がために。

 ―――――あれから、二十年。
      あの桃源郷は何処に消えてしまったのだろう?















郷  弐















「……文帝も明帝も、偉大なる彼の方達は、皇族の政治参与を厭うておられました。お若い貴公は知らぬでしょうが」

 雲一つない蒼穹の下、司馬家と司馬家の復権に賛同する武将達の兵が立ち並ぶ中で、 己の半分程の歳に過ぎぬ曹爽に嘲りを交えて説く。
 彼は自分の良く知る男であった。
 いみじくも皇族の…曹の名を冠する男だ。 其の父は曹真…字を子丹と言い、曹丕と血こそ繋がらないが兄弟の如く育ち、司馬懿と陳羣と共に遺勅を託された忠臣である。
 そう、彼は其の忠臣の息子であった。そして司馬懿と共に曹叡の遺勅を賜り、幼き皇帝の後見を任された男でもあった。
 にも関わらず、愚かにも司馬懿を排斥したばかりか、つい先日まで権勢を傘に己が皇帝の如く振る舞った。
 その様な男に当然先は無く、今や衆人環視の中、縄を打たれその首を刑吏に押さえつけられている。
 それは、己が他の皇族に比べて不遇を囲わなかった理由を、 己だけが特別なのだと捉えて恣(ほしいまま)にしてきた報いでもあった。

 ―――――愚かな。

 這い蹲る男へ憤りを込めて一瞥する。
 今までの優遇は直接血の繋がらぬ皇族であったからだと、何故にこの男は知らなかったのであろうか。
 彼の父親が曹丕の寵愛した大将軍であったからだろうか。 義父に曹操を持つ何晏を始め、世辞に長けた佞臣が居たからであろうか。
 何一つ苦労をしなかっただろう、その若さと無知さは司馬懿の理解出来る生き物ではなく、曹魏に生かす価値もない。

「ですから私が、魏を正すのですよ。曹爽殿、貴公を誅殺しましてな」
「正す? 思い上がるな! 貴様にそのような権利など無い!」

 首謀者の中で一番年嵩の男が声を荒げる。 名は桓範、曹爽の知恵袋と言われた文官である。 彼はその二つ名に違わず、曹爽が驕り高ぶる余り足元を掬われかねぬ軽率な行動をする度に、始終諫めていた。
 今回とて事が起こったや否や曹爽に報せに走り、 曹爽が投降に応じようとすると「司馬懿の目的は政権の奪取のみならず曹爽の首なのだ」と察知して抗戦すべきだと反対した。 もし曹爽が男の意見を悉く採っていたのなら、司馬懿の復権も曹爽の処刑も、少しばかり難しくなったかもしれない。
 その賢しさは評価すべき物で、 きっと主さえ違えなければこの様に縄を打たれる事無く穏便に栄達したろうに、と哀れすら覚える。

「…無い? おや、それは可笑しいですな」

 桓範の詰りに司馬懿が首を傾げると、顎で切り揃えられた横髪と房飾りが揺れる。 その真白い房に負けぬ程、白くなり果てた髪が目に映り、思わず払いのけていた。

「『私の眼が届かねばお前の眼を。私の耳が聞こえねばお前の耳を。 私の智が及ばねばお前の智を、己に、足らぬ所有らば補うのがお前の役目だ』、と」

 現で膝を枕に貸してやった曹丕。
 夢で膝枕をされたと告げた曹叡。
 死を間近に迎えた若き皇帝達は、それでも私に、疑いもなく国の未来を託してくれた。
 皇族をのさばらせず、民を苦しめず、三国を併呑せしめよ、と。

「嘗て文帝陛下は足りぬ所あれば補えと私に申された。 しかし今、彼の方には生が足りぬ。故に遺勅を賜った私が生を以て彼の方が成しただろうことをしているに過ぎぬだけよ」

 …荒廃したあの洛陽を、幼かった曹丕は見たのだろうか。

 昔、そんな事を良く思っていた。曹丕が即位してからは特に。
 彼が皇帝として先ず手を着けたのは、自身の権威を誇る事ではなく、はたまた敵対勢力の一掃でもなく、 繰り返されてきた亡国の起因を根絶する為の制度改革であったからだ。
 宦官に権力を持たせず、妃達の家系に地位を与えず、己が親族である皇族ですらも権力に溺れ国を冒すならば滅してしまえ、 と言わんばかりに過酷なまでに権限を削いで抑制してしまった。
 僅か在位七年という短き治世で彼はただ只管に、 帝の血筋とそれを取り巻く宮中が引き起こした過ちだけは繰り返さまいとして成し遂げた種々の施策は全て、 戦に疲弊しきった国家万民を安んじる為のものである。 そこに小人が抱くような愚かしい私欲など何処にもない。
 それが主君の意志であり、理想であった。
 だから、私はやらねばならないのだ、と思う。
 狂者と詰られようとも。
 歴史に謗られようとも。

  「――――例え、それで魏が滅びようとも」

 言葉をゆっくりと謡うように紡ぐ。断罪の手に舞うように踊る長い袖を纏わせて、空へと伸ばす。

「身命を賭して、私は陛下の理想を守らねばならぬ」

 振り下ろした瞬間、一斉に血飛沫が空を飛び、鉄錆と死臭に満ちる。 しかし、首謀者と共謀者共、三族併せれば流石に大地も全ての血を吸いきれずに、辺り一面に紅黒い水面が現れた。
 あまりの惨状に皆がざわめき、目を背ける。それはそうであろう。戦でさえ、こうも首だけにはならない。 しかも水音を立てて、首が惹かれるように幾つか司馬懿の足下に転がってきていれば尚更か。
 周りを見渡せば、祟られては堪らないとばかりに、近頃流行り始めた教えの数珠を握り締めて何事かを呟く者さえもいた。

 …だが、死者が何を出来ようか。

 それらは水面の中から、どれも怒りとも司馬懿への恨みとも憐れみとも取れる目で見上げてきていたが、 ただ冷笑を返して背を向けた。

「首は全て広場に晒しておけ。二度と斯様な凡愚が出ぬようにな」

 ―――――そう、死者には何も出来ないのだ。
      如何に其れが至尊の身で在ろうとも。

 背に部下の承諾の声を受けながら、処刑の時に頬に飛んできた血を拭った。
 世に背逆する心細さをほんの少しだけ、一人、ただ噛み締めながら。









嗚呼、貴方は非道い。
私を遺して何処に居る?











 帝郷 弐  終





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 帝郷 
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 そして、恒例の薀蓄です。
 壱部の膝枕ですが、中国では臨終(死)を迎えようとする主君に臣下が膝枕をしてあげていたそうです。
現に、晋書・宣帝紀では従軍中の仲達の夢に明帝(曹叡)が現れ、仲達の膝を枕にして横たわって「顔を見せろ」と言ったのだとか。 主君への膝枕=危篤(死)の暗示と取れた仲達は大慌てで戻ったのですが、既に曹叡は危篤の状態で、仲達の帰還後すぐに崩御してしまう…。
 確か、春秋戦国時代にもそんな描写があったのですが、曹丕様にはしてあげたのでしょうか…陳羣殿と一緒にしてあげてたら萌えます。

 帝郷…天帝のいるところ。仙人のいるところ。天子の居るところ。(@電子辞書)



2009/11/14 ikuri