「……え」 兄上、と唇が甘えをたっぷり含んだ言葉を綴る。 しかし、それに応える者は無く、切なる願いは空に消えた。 司馬中庶子が倒れたとの報が入ったのはある冬の事であった。 臨照 「具合はどうだ」 「…これは、曹丕殿…」 起き上がろうとした司馬懿を曹丕は手で制した。 大人しく横になっていた臣下は恐らくは服薬してから間もなかったに違いない。 薬湯の濁った臭いが鼻を突いた。病室特有の臭いである。 だが死の臭いはしなかったことに安堵した。司馬懿はそのことに気づいたのだろう。 『死にませんよ』と小さな笑みを浮かべた。 そうでなくばならぬと返しながら歩み寄ると、臥床の…側近のすぐ傍らに曹丕は座った。 キシリと臥床が鳴くと、彼はあまりの近さにだろう、薄桃がうっすらと乗る顔にほんの少しの驚きとほんの少しの安堵を浮かべた。 「…今朝方までは、酷い熱でしたが…今は微熱程度です。…明日には参内出来ましょう」 「もう少し養生しても良かろう。此処暫くは休まる事も無かったろうに」 「いえ、これ以上休ませて頂く訳には…熱とて、私の不徳の致す所で……曹丕殿?」 言い張るのを無視した曹丕は己の手を側近の額に当てた。 未だ熱のあるという身体のせいか、しっとりとした肌はいつになく熱く、 対して曹丕の手は冷たかったようで司馬懿が心地よさそうに力を抜いてそっと笑みを浮かべた。 普段の相手ならばあまり見せない無防備な姿であった。 「…まだ熱が高い。葬儀まで保ったのが不思議な位だ」 側近が倒れたのは、従軍中に流行病で亡くなった兄の葬式が一通り終わった時であったと言う。 気落ちが激しい父親に代わり、司馬家の喪主として何もかもをこなし、 彼の人の人徳を裏付けるように引きも切らず訪れる弔問客に一人一人対応をしたそのすぐ後であった。 慣れぬ一連の作業と、何より敬愛していた兄を突如として亡くした事は、彼の心身に相当の負担を強いたのであろう。 もし司馬懿が女であったのならば、ただ部屋で嘆き、九泉の人を偲んでさえいれば良かった筈だ。 だが、彼は次期当主であり、魏国の無くてはならぬ名士であったから嘆くよりも先にせねばならぬ事は山程在った。 「…唯一人の兄です。私がしっかりしませぬと」 「…そうであったな」 式は如才なく行われた。 司馬懿が指揮を振るった祭壇の支度から人の手配、客のもてなしまで、喪主としての落ち度は一つもない。 葬式は滅多にないだけに、喪主の臨機応変な対応やら気配りを試されるものであるが、 彼は己の有能さを示すように見事にこなしたのであった。 それは肉親の鏡とも言うべきで、今でも回復したらすぐに纏えるようにしたのだろう、傍らの衣掛けには白の装束が吊してある。 「良い見送りであった…さぞ故人も喜んでいよう」 司馬懿の兄、伯達は不器用ながらも大器を持つ次弟を殊更慈しみ、誇りにしていたと言う。 己が葬式とは言え、悲しみに打ちひしがれつつ為し遂げた弟の立派な立ち居振る舞いを見て喜ばなかった筈はない。 「…そうでしょうか…」 「気弱い事を言う…常のお前らしくないな」 ふ、と弱々しく微笑む男の髪を曹丕が梳く。 流行病の突然の死は覚悟がない分、衝撃も深い。 司馬懿は余程兄の死が堪えたようで、それだけでも張り詰めていた心を緩ませたのか、その瞳にうっすらと涙を滲ませていた。 瞬きをするだけで、目尻がきらりと光り、一筋涙が零れると、曹丕が目を見張る内にぼろぼろと溢れていく。 「仲達…」 「…お見苦しい、ところを…」 驚きのままに曹丕が声を掛けると、くる、と側近は背を向けてしまった。 紺の夜着に身を包んだ背は、ついこの前の記憶よりも少し痩せ、押し殺した嗚咽に小刻みに揺れていた。 その姿は哀れでとても愛おしく、思わず曹丕から手が伸びた。 身を寝具ごと膝に引き寄せて背から抱きしめると、意外にも抵抗はなかった。 ただ突然の事に主の意図を伺おうとして、身を捩って主の正面に向くとじっと見つめてくる。 「見苦しくなどない。寧ろ、至極当然であろう? 相手は他ならぬお前の兄ではないか…」 「…子桓様…」 寝乱れた髪を背に流してやりながら、それで良いのだと諭すように言う。 細い背が哀れで殊更に優しく撫でてもやると、胸にすり寄って…否、縋りついてきた。 すぐに、すん、と小さくすすり泣く音が聞こえてくる。 常らしくないその態度が、全て兄の為なのだとすると、如何にこの兄弟の絆が強いのかと、 如何にこの訃報が側近の心を抉ったのかを改めて思い知る心地である。 兄を病にて失うのは、曹丕にも経験があった。すぐ上の兄の曹鑠(しゃく)である。 ただ彼とは、司馬懿と司馬朗のような密な間柄ではなく、まるで他人のような間柄であった。 次兄は幼い頃から病弱で、何かしら臥せてばかりであった。 外出も儘ならなければ滅多に会う事はない。 また曹丕も幼いうちから父親に付き従って従軍し、各地を転戦していたものだから、 遠く安全な地で静養していた兄とは縁薄く、そして何より。 曹昂が戦死し、急遽湧き上がった後継者争いが二人を益々疎遠にした。 儒学に乗っ取り嫡男を、と推す臣下。 いや丈夫で文武に堪能な弟君を、と返す臣下。 二つの派閥は当然交わる事もなく、卞氏が丁度正妻になった事もあって益々双方が歩み寄る事が難しく、 内紛の様相は日に日に濃くなっていった。 「……、」 だがある日、愚かな人間達を嘲笑うかの如く、突然その醜い争いに終止符が打たれた。 渦中の人物である曹鑠が病で死んだのである。 従軍先に伝えられた、死んだとの報さえもその距離故に現実感はなく、 九泉に旅立った日も既に少しばかり遠い日になっていた為か、どこか他人ごとの印象を受けた。 今思えば決して相容れぬ相手ではなかった。しかし老獪な取り巻き達に対して兄弟は幼過ぎて、 ただただ翻弄されただけであったのだ。 今ならばもう少し何とかなるのだろうかと、放り出されるように残された曹丕には悔やまれるばかりである。 「…仲達?」 物思いに耽っている内に、腕の中にいる男がずしりと重くなっていた。 泣き疲れて眠ったのかと覗き込むと、呼び掛けに反応して熱に潤んだ瞳を薄く覗かせた。 涙が体を熱くさせているのか、それとも熱が上がってきたのか、看病など碌にした事のない曹丕には判別し難い。 侍従を呼びに行こうにも縋ってくる側近を今更放り出す事も出来ず、 出来る事と言えば傍らにある水桶から布を取り出して額に当ててやる事だけである。 利き手は細い背を抱いているせいで、ぎこちなく片手で絞るのもやっとであったのだが、 それでも少しは冷たくなったのだろう。 腕の中から心地良さそうにはんなりとした微笑が返ってきた。 「…昔、兄上もこうして下さいました…」 「伯達殿が?」 「はい、洛陽から疎開していた時に…従者も少なかったので」 手の掛かった事のないすぐ下の弟が寝込んだ事が余程気にかかったのだろう、 同母兄とは言え嫡男自らの看病は当然珍しく、皆に慕われる兄を独り占めする状況にらしくもなく喜んだのだと言う。 「…私に構うには忙しい身でしたでしょうに」 …兄は、私が幼い頃から家中を纏め、嫡男として家を背負っていたのですから。 と、彼はその時を述懐した。 司馬家は古の王の血が流れる名家の出身であるから、家の柵など今まで厭という位知っていたつもりであったのだろう。 だが双肩にかかる家の重みは、嫡男の比ではない。 それは、上が空いて風通しが良くなったと思うや否や思い知る事である。 司馬懿と年は離れていたけれども、当時の司馬朗もまだ若過ぎる位であろう。 しかし弟達にその責務の辛さや重さなどついぞ感じさせた事はなかったのだ。 曹丕の言葉を借りるなら、当にあるがままに生きていたように司馬懿達には見えたのだと、司馬懿が述懐する。 あの時分は、董卓が洛陽で暴虐の限りを尽くしていた頃だ。 任地にいる父親の代わりに、一族を都から無事に脱出させるには並々ならぬ苦労があったと聞く。 司馬朗は薫卓に帰郷を願い出て…何故暴君が引き留めたかったかは判らないが…許されずに身柄を拘束された。 しかし賄賂を役人に渡す事で難を逃れ、一族を無事に疎開させる事が叶ったのであったのだと。 「死の危機に直面しても兄はいつも毅然としていて…不安がる私達を励ましてくれたものです。 その兄に比べれば…私が如何に励もうと…立派に家を盛り立てる事が出来るとは思えぬのです…そして誰も認めますまい…」 「それは無かろう。私が先ず認めているのだから」 すっと司馬懿の目尻から涙が流れていく。その涙を途切れさせようと煌めく道の途中に口付けて…塩辛さに胸を打たれた。 相手はその心中をどう思っていたのだろうか、ふふ、と熱っぽい吐息混じりの笑い声が漏れた。 泣いたせいで益々熱が上がったようであった。 瞼は既に腫れぼったく、冷やしてやらねば明日酷い顔になるだろう。もう手遅れなのかもしれないが。 「…貴方が、お優しいなんて珍しい」 「しおらしいお前も充分珍しいぞ」 「ゎッ!?」 抱き締めていた身体ごと寝台に横たわった。 驚きにぱちぱちと瞬きを繰り返すばかりの寵臣に笑いかけながらまた口づけを落とす。 「一先ずは眠れ…傍に居てやるから」 抱き起こしたせいで乱れた上掛けを丁寧に直し、その痩身を包み込む。 為されるがままにしていた彼は、曹丕の手が止まるや否や外れた腕を背に回して引き寄せてきた。 「…いつまで、です?」 甘えた声が縋る響きで曹丕に聞く。 ぎゅう、と衣を握りしめて拳を作る様がいつになく必死で頼りない。 「『いつまで』? 愚問だな、仲達」 その細く白い背中を、言わなくても伝わる彼の望み通りに強く抱いた。 ひくりと動いたのはしゃくりあげたからか、肩口が熱かった。 「無論、死んでも離さぬ」 誓った瞬間に、『嗚呼』と涙声が肯った。 続 - - - - - - - - - 臨照。 2 - - - - - - - - - - - - - - きりが良いので二つに分割。2は司馬孚捏造ですので注意! 2009/07/21 ikuri 戻 |