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「叔達か」
「はい」

 曹丕の声にひょこりと戸口から頭を覗かせたのは司馬懿のすぐ下の弟、司馬孚であった。 どちらかと言えば長兄司馬朗に似て温厚かつ人好きのする男は、拱手をして入ってきた。

「良かった。兄上、お休みになれたみたいですね」

 臥床に上半身を起こして座る曹丕の側まで近づくと、すやすやと眠る兄を覗き込む。 心配のありありと浮かべられていた顔はにこりと笑い、安堵の溜息を漏らした。

「有難うございます。これで兄上も大分良くなりましょう」
「…なに、大した事ではない」

 深々と頭を下げる司馬孚に苦笑が漏れた。 看病にもならぬ曹丕の看病に感謝されても気恥ずかしいだけであった。 その照れを誤魔化そうと、胸元で寝息をたてる男の話題を振る。

「やはり、仲達は寝ていなかったか」
「司馬家の者は皆…しかし、兄程では」

 司馬孚は首を振って、うっそりと笑う。よく見れば、彼もまた憔悴の色が濃く、その微笑には影が射していた。

「ただ一人の兄であるからな…」
「いえ、それもあるのでしょうが…」
「…どうした?」

 言葉を濁すように言い掛けた司馬孚に尋ねる。 僅かの沈黙の後、曹丕が引かないと観念したのだろう、ぽつりぽつりと話し始めた。

「…お恥ずかしながら…父が落胆のあまり、兄上に辛く当たっているのです」

 眉を顰めた司馬孚はその沈む心のままに瞼を伏せた。
 その脳裏に浮かんでいたのは、祭壇の前に縋りつく父の背中であった。 嘗ては畏怖さえ持ったその背は記憶よりも…司馬朗が従軍した日よりも小さくなっていた。
 父親のあまりの深い嘆きに、慰められる言葉を持たず、共に涙を流せる心持ちではなく。 兄弟はただ呆然と為すすべなく立ち尽くし、その背を見守っていた。 聞こえるのは父親の、
『これほど弟妹がいるのに何故お前が死なねばならぬ。何故他ではならぬ』
 …と繰り返し繰り返し紡がれる言葉のみ。 それは正しく呪詛に聞こえ、内容の不穏さに司馬孚の眉が顰められた。
 確かに長兄司馬朗の大きな存在を失った司馬家には大変な痛手である。 しかし、だからと言って残された息子達の誰でも良いから、死んだ兄の代わりに、と言うのはどうであろうか。 少なくとも次の継嗣である次兄の前で。
 流石に居たたまれずに『兄上、もう行きましょう』、と懇願めいた事を兄に告げた。 しかし兄は律儀にも棺に縋る父親に追従するように後ろに控えたままであった。 一体、何を思っていたのだろう、哀悼の表情をした仮面を顔に張り付けたかの如き表情で。
 それから暫くの間、兄は父の白い背と祭壇を見ていたのだが、しきりに懇願する弟に根負けしたようで、 父親に慇懃に一礼すると、「行こうか」と声を掛けてその場を後にした。
 その平然と何事もなく振る舞う姿は、自分には到底真似が出来ないものであった。
 しかし、今思えばその時から疲労の色が濃くなったようである。 そつなくこなす対応にも覇気が失せ、危うい印象を受けるようになったのだ。
 だが、それでも葬儀を取り仕切り、埋葬が終わるまで保っていたのは流石と言うべきか。 その痩身が崩れ落ちたのは、弔問客が引き取り、緊張の糸が途切れた瞬間であったのだから。

「…嫡男を喪った父の悲しみは判ります。ですが仲達兄上がお労しくて…」

 何かに八つ当たりしたくなる気持ちは判らなくもないのですが。と司馬孚は白い袖に溜息を隠す。
 訃報に憔悴した父の姿と、心労に床に伏せた兄。
 何も知らなければ釣り合っただろう天秤は、どうしたって兄に傾いてしまう。

「そうだな。だから私を呼んだのか?」
「…申し訳ございません…」
「構わぬ。中々に愛らしい姿を見れたからな」

 『傍に』とねだる側近の姿を思い出して、喉奥で笑いながら曹丕が漏らした言葉に僅かに司馬孚の目が見張られた。 しかし司馬孚もすぐに目を細めて小さく笑った。自分もそう思うのだと、同意を含めて。

「…その様に可愛い兄上は初めて拝見致しました」
「だろう?」
「ええ」

 素直に感想を吐露すると相手が得意気に笑ったので、それにも頷いてみせた。
 あどけない顔で眠る兄は傍らにいる主君に縋るかのように身を丸めてくっついている。 いつもの冷徹な軍師然とした姿しか知らない司馬孚には、このように兄の仲達が頼り甘える姿など想像つかないものであった。
 兄を知らない者は、『主従仲が芳しくない』、『臣下の分際で天下を狙っている』などと口さがなく言い、 世間でもあまり良い噂など聞かれない。 けれども、本当は曹丕と深い絆があり、唯一安寧を得られる相手のだろう。 そう、兄は世間に言われるような冷たい男ではなく、主を慕い主にも慈しまれる男なのだ。
 その事に司馬孚は奇妙な位に安堵する。 未熟な弟が優秀な兄を心配するなどとは可笑しいだろうし、烏滸がましい事だとは思いはするのだが。

「…曹丕様、もうじき夕餉の支度が整いますが、如何なさいますか?」
「ああ、そうだな…」

 曹丕は相槌を打った。だがすぐに視線を下に彷徨わせると、首を横に振った。
 その様子に、長らく兄に付ききりであったから空腹を覚えていない筈はないのだが、 と不思議がり小首を傾げる司馬孚に曹丕が照れくさそうに付け足した。

「傍に居ると約束したからな。仲達が起きてからにしよう」

 そう言って曹丕は寝乱れた臣の髪を梳いてやる。 くしけずるその指も、その顔も随分と優しかった。

「は…、」

 冷酷とまで称される曹丕の常の姿を知る司馬孚としては非常に珍しく、見慣れない事もあってか、 雰囲気に当てられてしまい頬が我知らず熱くなる。 きっと熱を出した兄よりも紅い事は簡単に想像がつき、慌てて拱手する事で顔を隠した。
 曹丕はそれに気付いたものの、何をからかうでもなく、相手に気付かれぬ程度に口元を緩めただけであった。

「あの、ではご迷惑でなければ白湯と…何か摘める物でもお持ち致します。他にご入り用でしたら何なりと仰せ下さい」
「いや、充分だ。気遣わせて済まないな…其方も疲れているだろうに」
「いえ、滅相もございませぬ。…それでは暫しお待ち下さいませ」

 労いの声に恐縮しつつも、踵を返す。 しかし振り返る時に、兄へと曹丕が身を屈めていくのが一瞬だけ見えた。 何をしようとしていたのか知る由もなし、しかしそれにすらも当てられた彼には足を速める事しか出来なかったのであった。










 終





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 臨照。 
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 長らくお待たせして申し訳ありませんでした!
1万Hit記念リク、『風邪ひき仲達を看病してあげる丕様』です。
こちらは上記リクエストをして下さった方に慎んで献上させて頂きます!
リクエストして頂きましてありがとうございました!
それと死ネタ紛いですみません! 返品・改修・苦情、受け付けますので…!!;



 そして、以下補足説明と言う名の薀蓄時間なので嫌いな方は後退推奨です。

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丕様は実は三男で、異母兄に曹昂、曹鑠(曹昂の同母弟)がいます。
曹昂は父曹操を逃がす為に宛城で戦死、曹鑠は病弱の為病死しています。
二人とも二十代前半から半ばの死去と思われますが、如何せん早死に+病弱がたたり、あまり史書に記述が無いのです。
辛うじて丕様が自伝で曹昂お兄ちゃんに触れてるくらい。
なので、曹昂→曹鑠、曹鑠→曹昂の順で亡くなったかは不明です。
 とは言え、研究家曰く、曹昂の死後すぐに卞氏(丕様の母)が正妻に昇格した事から、 恐らく曹鑠→曹昂の順だと言われているそうですが…(作中ではあえて無視!/死)

 あと、司馬朗お兄ちゃんについて。
あ、死亡季節は信じないように…ただ、昔の死亡季節と言えば冬なので。
(書き始めた季節が恐怖のインフルが流行り始めた時だったからとは言いません!)
でも、丕様が伯達兄上のことを評価して、彼の言葉を文章に残させたとかいうエピソードが残ってます。
仲達のみならず、司馬朗・司馬孚の司馬兄弟に好意は持っていたと思われます。 (※因みに司馬孚は、最初は曹植の教育係、後に曹丕付になったというのを何処かで見たような。)

 あと白湯。
何故司馬孚が白湯を薦めたかというと、三国時代にお茶はまだ無かったからです。
三国末期くらい?に呉で出現(というか文化が流れてきた)したという先行研究を見たような記憶があります。
なので孫権様は飲んだかも知れないですね。^^


 臨照…上から下を照らす。照らし見る。(お兄ちゃんと丕様イメージ)

2009/07/21 ikuri