とある夜の椿事。
















「…口付けはもう慣れたのか?」

 覆い被さるとねだるように絡む細い腕に、曹丕からはくすくすと笑う声が起こった。 『貴方が慣れさせたのでしょう?』と笑いを含んだ司馬懿の少し高めの声がやり返し、再び唇を寄せる。
 赤い舌は唇に差し込まれ、近づいた唇に飲み込まれる。 可愛らしく、ちゅ、と音が立っては、緩やかな悦びが背を走り身を浸した。 逞しい男の躰に自らの痩身を擦り寄せて、その快楽を追う。
 密着させた腰からは如実に相手の状態が判る。 隙間から曹丕が手を侵入させ、高ぶりを握り込めば既に白濁にぬるぬるとして指を汚した。

「ぁッ…!」
「口付けだけで此処をもうこんなにして…仲達はいけない子だな」

 曹丕が達さないように巧みに加減して若い雄を煽り立てる。 手の中からは、くち、くち、と艶めかしい音が立つ。薄桃の頬が益々色づいた。

「やぁ…ちが、ぅ…!」
「どう違うのだ?」

 聞くも、いやいやと首を振るだけで埒も空かず、聞き分けのない悪い子にはお仕置きせねばなるまいが、 と小さな耳にそっと意地悪く囁く。
 お仕置き、の一言にビクリとした子供はおずおずと曹丕を見、震える唇を開いた。

「…子桓さま、が…ちゅ…達を、いけなくした、から…ぁ…」

 そこまで言うと羞恥の余りにかしゃくり上げ始めそうに喉を震わして、黙り込んでしまった。
 その瞳にはじわりと涙が盛り上がり、瞬きした拍子にぽろりと涙を零す。 その姿には流石に可哀想になり、嗚咽を漏らさまいとしているのだろう一文字に引き結ばれて戦慄く唇を啄んだ。 宥めるように頬に口づけると塩辛い味がして何て無垢な、と感嘆とも哀れみとも知れぬ感情が芽生えてしまう。
 下から曹丕を窺う黒曜石の瞳。 しばたく睫毛は、少女の如くたっぷりとして長く、それが不安そうな、僅かな恐怖を覗かせてさえいるのを見て。
 もう少し苛めてみたかったが、と心中でごちるが、 曹丕にもこういった行為にも嫌な感情を抱かせたくはなく、致し方なく苛めるのを止めた。

「ああ、悪かった。私がいけなかったな…全部私が悪かったから、泣かないでくれ…」

 曹丕は頬を撫でて視線を合わそうと覗き込んだ。 しかし拗ねた素振りで唇を尖らせた彼は『もう知りませぬ』と呟くとそっぽを向いてしまう。 その視線を再びこちらに向けようと横顔に口付けて許しを請うた。

「拗ねてくれるな。愛しいお前に嫌われたら生きてはおれぬ…」

 悲しげな声音に、司馬懿はちろりと曹丕を見遣る。 涙にうっすらと艶が乗る視線は流し目のそれであった。 これが恋の駆け引きに不慣れな子供ではなかったら、余程手練手管に長けた傾城の技に等しい。
 もし、この子供が、末に幼くとも際立つその美貌と知謀を以て意図的にしたとしたら。 言いなりになるような愚昧な主にも、利用されるだけの無価値な男のどちらにも、成る心算も予定も無かったのだけれども、 如何な曹丕とて誑かされぬ自信は無かった。
 その艶姿が心の片隅では恐ろしいとは思う。 とは言え、無意識に現れているからこそ、無垢な子供が曹丕の一挙手一投足に反応してその魅力的な一面を不意に見せるのが、 何とも愛おしく何とも形容し難い喜びがある。
 今もそのまるきり少女然とした瞳が『本当ですか?』と言いたげに上目遣いに見上げてきて、 本心から『嫌われたならば悲しい』と訴えると、考え込むようにそっと眼差しを伏せた。
 ややもして、嫌いじゃない、と胸の辺りで子供のか細い声が呟いた。 曹丕が身を屈めて名を呼ぶと、呼び返してくる声があった。

「許してくれるか…?」

 確認する言葉に頷きが返る。 そっと視線を合わした。 少しぎこちなかったけれど微かに笑みを見せた子供は目を瞑る。

「仲達…」

 思わず口端が上がる。首に手を回して引き寄せた。 仲達は優しいな、と紡ぎながら唇を寄せた。

「!」
「ッ、……子桓、さま…?」

 だが、今にも唇が重なろうとしたその時、曹丕の動きがぴたりと止まった。 一気に張りつめた空気に身を竦めて怯える子供を抱き起こし引き寄せる傍ら 、部屋の隅に立てかけられていた衝立に向かって、護身用にと枕元に用意してあった短剣を投げる。 子供がその残像を捉える前に柄の所まで短剣が沈んだ。

「…この曹丕を狙うとは、貴様ら余程命が要らぬと見える」

 低い声で衝立の向こうに言い放った。 不覚にも気付いたのはほんの少し前である。 初めこそ鶏口の契りという背徳感が為した幻の気配かと考えていたのだが、 それにしては妙に押し迫り絡み付くような視線を感じていた。 今まで気付かなかったのは、よく押し殺されてはいた気配のせいか。 思うにそこそこ腕が立つ相手なのかも知れなかった。

 ―――――不味いか。

 曹丕は心中でごちた。 先程、司馬懿に再び覆い被さった瞬間に、その無防備になる瞬間を狙っていただろう侵入者の気が微かに揺らいだのだが、 その気配は二人分であったからだ。 更に不味い事には、増援を請おうにも、愛しい者と夜を共にする為に人払いをしていたのである。
 腹の底にずしりと重く溜まってくる緊迫感を感じながら、彼は寝台の脇に備えてあった愛剣を取った。 守るべき華奢な躰を背に隠して構える。 視線は短剣の突き刺さった先に据えたままで。

「…何者だ、出てこい」

 もう一度、侵入者に呼びかける。 視界の端に子供が同じく扇を携えたのが見て取れた。 何とも頼もしいことだと思いながらも、まだ戦場を知らぬ子供である。 過保護かも知れなかったが、なるべく血にまみれさせる事は避けたいと思う。

「……、」

 衝立に手を掛けて侵入者が動いた。
緊張で衝立から姿が露われていくのが殊更ゆっくりと感じられた。 静寂の中、ピリピリとした空気に毛が逆立ち、不安になってしまったのか背中から、 しかんさま、と頼りなげに呼ぶか細い声がした。










 続





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 とある夜の椿事。 
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 長くなったので二つに分割。

2009/06/21 ikuri