「……、」

 しかし、次の瞬間に室に響いたのは呆れ果てたと言わんばかりの溜息であった。

「し、子桓様…」
「…気のせいであったようだな。思っていたより疲れていたらしい。早く休むか」

 くるりと体ごと振り向いた曹丕は剣を置く傍ら、 無粋な物は不要とばかりに未だ強く握られたままの羽扇の指をそっと外し、枕元に置かせた。 戸惑うばかりの子供の、折角乱した衣を丁寧に整えて寝かしつけようとする。

「ですが…」
「うん、どうした?」
「…まだ、あちらに…」

 恋人は気になって仕方がないらしく、つんつんと曹丕の衣を引っ張る。
 しかし横たわらせようとする腕に抗うつもりはあまり無いらしく、大人しく横たわると、 にこ、と曹丕が笑うのにつられて身をすり寄せてきた。甘えて頬まで寄せて間近でもう一度囁く。

「曹昂様と兄上が…んッ…」

 曹丕が軽く合わせた唇を吸うと、漏れ出た声は甘く響いた。 先程途中で止めてしまった事もあり、容易く下肢がまた熱くなるが、 腕にしまい込んだ者は今晩限りの相手ではないのだからと口付け以上をする事はしなかった。 子供の為だと思えば何ら耐える事はないのだけれど、ただ髪を梳くと、 物足りなさそうに黒目がちの瞳を潤ませた子供がいてそれを耐えるのが一番辛い。

「…ふ、仲達はおかしな事を言うのだな? 私の兄上は宛城で勇敢に戦い戦死しているのだから、 まかり間違っても変質者の如く私の部屋には居はせぬし、天下に人格者として名高い司馬朗殿は言うに及ばずだ」

 優しく言い含めるように言いながら上掛けを相手と自分に掛ける。

「だからあれは幻だ。気にする事ではない…分かったな?」
「はい。…ではあちらのは鬼(グイ)でしょうか?」
「そうだな」

 素直に頷いた子供の額に褒美として唇を落とした。 ふふ、と可愛らしい声が嬉しげに響き、もっと、とねだる。
 求めて求められる。そんな些細な触れ合いにも幸せだと感じる。





「…私がいつ死んだって言うのかな?」
「…おや、亡くなった兄上の無念のお言葉が聞こえてくる…幻聴とは私も疲れている事だ」
「こら、子桓!」

 仁王立ちして怒鳴る不法侵入者が流石に煩くて渋々起き上がった。 横目でじろりと睨みつけながら、同じく起き上がった子供を抱き寄せ、その肩が冷えぬように上掛けを羽織らせる。

「何だい、子桓。怖い顔して」
「…いやはや曹家と司馬家の嫡男とも在ろう御方達が、一体何をなさっているのかと思いましてな」

 衝立から堂々と出て来たのは曹操の後継者たる曹昂と、名家である司馬家の嫡男であった司馬朗であった。 一体いつから潜んでいたのか、夜も大分更けていたと言うのに未だ平服のままで、 曹昂の少し後ろで人好きのする穏やかな笑みを浮かべる司馬朗に至っては、夜食入れを携えていたのであった。

「毎回毎回…いい加減にして下さいませんか? 数日前だって庭に潜んでいたでしょう!」
「いやね、兄としてはいくら阿懿が可愛いからって子桓が暴走しやしないかと心配で心配で…」

 ほう、とさも心配そうに曹昂が溜息を吐く。 表向きは嫡男に相応しく如何にも情の深い姿ではあった。 忙しすぎて我が子に無関心な父親とは雲泥の差である。
 本当ならば良い事だろう。 だがしかし、この兄は関心が間違った方にもありすぎるのである。
 曹昂が、返すね、と短剣の柄を差し出したのをひったくる様にして受け取り、冷たく言い放つ。

「要らぬ世話です。二度と邪魔しないで下さい」
「良いじゃないか、ケチくさい…」
「ケチとかの問題ではないでしょう! 大体それは一体何なんですか?!」

 夜も更けた頃だと言うのに平服で且つ夜食持参という覗き見する気に満ち溢れている兄に、曹丕はびしりと指を突きつける。

「? 何がだい?」
「何がとかどの口がほざきますか! 貴方が持っているその筆と竹簡でしょうが!」

 曹丕が突きつけたその指の先には墨をたっぷりと含んだ筆と、真新しい竹簡があった。 まさかこのような状況…覗きをしようとしている者が仕事を持ち込む程忙しいとも真面目とも思えない。

「ああ、これ? 曹家は皆、文学に堪能だからね。私も一ぱ…、否、一筆記そうと思ってね」
「…何を一筆だか一発だかするか判りませんけどね。 兄上に文学的素養があるなどと噂にも上らぬくせに何を血迷い事を申しているのですか!  後世の歴史家とて誰も記しませんでしょうな!」
「子桓、酷くないかい?! 昔は可愛かったのにいつからそんなに可愛く無くなったんだい!」
「誰がそうさせたんですか!」
「史実では父上じゃないか! 私のせいにしないでくれないか!?」
「同列です! 大体、兄上方が邪魔をするせいで仲達とは未だに清い仲なんですよ!?  邪魔をしない父上の方がまだマシです!!」
「だからそんなの気にせずに初夜を続けていれば良いだけじゃないか!  子桓が大人の階段登るのを兄上が暖かく見守ってあげるから!」
「気になるに決まってるでしょうが!」
「それは子桓に甲斐性がないからだろう!」
「私を兄上と一緒にしないで下さい!」
「子桓、更にひどい…!」

 司馬兄弟が口を挟まなかった(司馬朗に至ってはにこにこと見守っていた)事を良い事に、積もり積もった不平をぶちまけた。 可愛い弟だと未だに錯覚しているらしい曹昂は罵ってくる弟に軽く涙ぐみながら怨めしげに睨む。
 だが立ち直りは早く、軽く涙を拭うと腕を組んでふんぞり返った。 流石は乱世の奸雄の長男と言ったところか。

「…ふっ、まあ良いさ。親の心子知らずと言うしね…兄上の愛が伝わらなくても仕方ないよね」
「…愛だったんですか? 嫌がらせではなく?」
「何とでも言いなさい。兄上の心はそんな事では挫けないし、弟を心配する気持ちも無くならないんだから!」
「はいはい」
「疑うなんて子桓は心が狭い子だね。でも証拠に今日は良い物を持って来たのさ。…伯達、例の物を」
「はい」

 どこから取り出したのか、司馬朗が取り出した皮袋は兵糧入れを思わせる大きさで、 彼はそれを言われるがままに曹昂へと手渡した。 おざなりな相槌を打たれたにも拘わらず、にやり、と笑った曹昂の手に乗ると、 碌な事にはなるまいと父親に似た顔にそう思ってしまう。 ましてやその怪しげな袋を、何故か司馬懿に渡していれば尚更である。

「阿懿にはちょっと早いかもだけど倦怠防止に使っておくれ。きっと気に入るから」
「ありがとうございます。…開けても良いですか?」
「勿論だよ」

 期待にいそいそと司馬懿の小さな手が紐を解き袋の口を開ける。 しかしすぐに曹丕に身を寄せて尋ねてきた。

「…子桓様、これ何ですか?」
「…何だ?」

 首を傾げながら子供が手渡してきた袋は、ずしりと重かった。 『倦怠防止』と言う兄の言葉にとてつもなく嫌なモノを感じながら中身を覗き込む。

「………………。」
「…子桓様?」

 覗き込んで絶句した曹丕に同じく子供が覗き込んだ。 中には子供が初めて見る物ばかり入っており、『倦怠防止』と銘打たれたそれらの用途は全く判らなかったらしく、 不思議そうに瞬きをする。 だが玻璃で作られた玉だけは見覚えがあったようで、『これ、遊ぶもの?』と無邪気な声が固まったままの曹丕に窺った。
 遊ぶ物と言えば確かにそうなのだろう。だがしかし、大人が夜に遊び楽しむ為の物である。

「まだ私のすら入ってないのにこんな物入れさせられますかー!」
「痛っ!! ちょっと子桓! これ高いんだから丁重に扱いなさい! 手に入れるの物凄く苦労したんだから!」
「お黙り下さい!」

 手加減などせずに顔面に直撃させてやったというのに袋を落とすどころか元気に反論する兄に、 もっと強くやれば良かったかと舌打ちする。
 しかし、『いや今からでも遅くはない』と思い直した。
 ―――――兄が大事そうに抱えるろくでもない代物共をひったくりもう一度父親に似て色ボケした顔面に…!

「は、伯達っ! 子桓が怖い事考えてそうなんだけど…!!」
「おやおや」

 心の声が漏れたのか、はたまた父親似で察しが良いのか、じりじりと後退った曹昂は司馬朗の後ろに隠れた。 臣下が君主を守るのも当然であるし、曹昂の方が年若いのだからそれは至って普通の事なのだが、 まるきりの文官に守って貰うのは如何なものか。
 じとりと冷めた視線を送る曹丕に、庇う側の司馬朗はくすくすと笑うきりで、 恐らくは兄より更に年の離れた曹丕の怒りなど、ただ可愛らしいとしか思っていないのだろう。 幼児にお菓子か玩具をあげるように懐から曹丕の手にすっぽりと収まる位の小さな箱を差し出してくる始末であった。

「………何ですか?」
「曹丕殿、お気持ちは判りますが、そこまでで御勘弁下され。お詫びにこれを差し上げますから…」

 気持ちが分かるならこの場に居ないのでは?
 …とは、もう既に言う気が起きず、手に持たされた箱を胡乱げに見た。 一見した所、その箱は木に質素な細工をしただけの薬入れらしく、手の中でカラコロと小さな音を立てた。 薬丸でも入っているのだろう。 常識人かつ人格者として名高い司馬朗に限ってまさかとは曹丕は思うのだが、兄といた時点でかなり嫌な予感がする。

「……これは?」
「何を隠そう、周王朝より伝わる司馬家秘伝の妙薬でございます」
「…それは貴重な物を…有難くちょ」
「そう、これを一匙相手に含ませば乱れる事当に動乱の如し!  実はこの後、子侑様に使……いえ、貴重な物なのですが、可愛い弟の苦痛を和らげる為ならば何を惜しみましょうか!」
「……伯達殿…」
「伯達、まさか私に一服盛ろうとしてたのかい!?」

 横で兄が迫り来る貞操の危機に(多分恐怖に)震えながら叫んでいたが、 それをさらりとにこやかな微笑で無視して更に司馬朗は言い募る。

「あり合わせの物で申し訳有りませぬが、効き目は抜群ですよ。きっとめくるめく初夜になりましょう!」
「…はい…、」
「ふつつかな弟ですが、どうぞ宜しくお願い致します」

 司馬朗はそこまで言うと深々と一礼をした。 愛娘を嫁に出す父親のようである…が、実の父親なら夜離れをされた娘でもないのに媚薬など渡す筈がない。

「………有難うございます…」

 曹丕はそっと溜息を吐いた。司馬朗が、どこか満足げなのは気のせいだと思いたかった。

「それでは…さあ子侑様、帰りましょうか」
「でもまだ見届けて…!」

 気が済んだのか、それとも元より曹昂に付いてきただけであったのか、あっさりと司馬朗は帰る素振りを見せ、 曹昂からいかがわしい物を取り上げてしまった。
 素直に同意せぬ曹昂から、『あ!』と非難の声が上がったが、それをまたしても笑顔で封殺した。

「人様の閨房よりやはり己の閨房ですよね? 折角、良い物が手に入ったのだから試してみたいでしょう?」
「…伯達、誰がかな?」
「勿論、子侑様でしょうに…ああ、恥ずかしいのですね?  大丈夫ですよ。恥ずかしさなど、この道具達で忘れさせてみせますから」

 引き釣った笑みを浮かべて聞き返す曹昂に『どれから試しましょう?』と司馬朗はにっこり笑う。 曹丕が見た限りでは普通の夜の玩具はあまりなかったのだが、司馬家の嫡男殿には許容範囲だったらしい。 流石は子沢山の司馬家出身と言う事なのだろうか。

「ふ、ふふ…力づくで私をどうこう出来ると思っているのかい?  文官に負けるような私ではないよ! 逃げ切ってみ…?」
「兄上っ!?」
「曹昂様っ!?」

 じりじりと後ずさりしながら勝者の笑みを浮かべていた曹昂が、不意にがくりと膝を突いた。 手を付きはするものの、それも無駄に終わり、横たわる形で苦しげに息を荒げている。
 すわ何かの発作か毒かと二人が声を上げるが、この場で司馬朗だけが動じずに相変わらず微笑を湛えていた。

「大丈夫ですよ、曹丕様、阿懿。 ……全く、少しばかりお静かになさいませ、子侑様。お休みになっている皆さんの迷惑ですから」

 地に崩れ落ちた曹昂を見下ろし、くつくつ、と司馬朗が喉奥で笑う。 力が入らないのか碌な抵抗が出来ぬ青年を暴れない為に軽く手首を戒めたかと思うと、 武人程の力はないが立派な体格の男は細さを残す曹昂の体を容易く担ぎ上げた。

「…まさ、か…」
「司馬家秘伝の夜食のお味は如何でしたか?」

 あくまでにこやかに。 しかし黒い笑顔でのたまう姿は曹兄弟の背筋をいつになく寒からしめたのであった。





「もう休むか…」

 脱力感に苛まされ、若い衝動が呆気なく掻き消えた曹丕はしみじみと司馬懿に語りかけた。
 兄二人は既にいない。 『薬は切れたらすぐにお持ちしますので』と、一点の曇りもない笑顔でそう言い残して、 司馬朗は彼の戦利品(人?)と共に帰って行ったからであった。

「……仲達?」

 声が返らない事を不思議に思い、名を呼んだ。 だが問いかける曹丕の声は聞こえていないのだろう。曹丕が呼び掛けてもじっと窓の外を覗いていた。 先程曹丕が取り上げた羽扇を何時の間にか手に持ち、柔らかな羽先だけを思案げにはたはたと揺らめかせている。 見ている内に、眇められたその瞳が獲物を狩るそれになり、口端を上げて妖艶に笑った。

「仲た」
「えいっ!」
「ぐぁああぁッ!?」
「司馬防ーッ!? しっかりせい! 傷はまだ浅いぞ!」

 もう一度声をかけようとした瞬間、放たれたのは紫の眩い光線であった。 次いで外で何やら聞き覚えのある声が悲鳴を上げる。

「…仲達…」
「怪しい人がお庭にいたから退治しておきました!」

 呼び掛けるとくるりと振り返った子供は間違い無く実の父親を仕留めたのだが、 気付いているのかいないのか、曹丕の胸元にすり寄ると褒めて褒めてと上目遣いの愛くるしい仕草で見つめてくる。

「そうか…仲達は武も堪の」
「あ、まだ居ったか! 食らうが良い!」
「とッ殿ぉぉッー?!」
「……、」

 曹丕が言い切る前に、腕の中から怪光線が走った。 爆発音の後、何処かで『総大将撃破!』とか何とか聞き慣れた文句が聞こえた気がしたのだが気のせいだろうか。
 いや気のせいだと思おう。偉大な父が覗きなど断じてしない。
 だが一瞬、家出を真剣に考えてしまった。

「申し訳ありませぬ。一人、仕留め損ねてしまいました…でもおかしいですよね?  怪しい人なのに何か、聞き覚えがあるような声で…」

 固まる曹丕を余所に、『どうしてでしょう?』と思案げに窺う子供はいじいじと羽扇の羽を指で弄ぶ。 その少し落ち込んだ様子は侵入者に逃げられた故らしく、完璧主義の片鱗を見せ始めている彼らしい。

「………仲達よ、気のせいだ。宵も深まってくれば誰の声も似通って聞こえよう」
「はい」
「だから今日はもう休もうな。な?」

 子供を抱きかかえて今度こそと横にならせる。
 意外にもすぐにくうくうと寝息を立て始めた子供を見届けてから眠りに落ちた。

 それを現実逃避と人は言うのかもしれない。










 終





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 とある夜の椿事。 
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 以上、『お兄ちゃんs に邪魔される丕司馬』でした。
加留基の千鳥様へ1年前の相互御礼を漸く差し上げられます…! 大変遅くなってすみませんでした!
初めてのオン公開えろと二回目のギャグに挑戦して玉砕した感じもしなくはない(背景までやっちゃった感もしなくもない…)ですが、 慎んで献上致します!
まさかの朗昂とストーカー父上sを、少しでも…ほんの少しでも楽しんで頂けたら幸いです。orz
改めて、千鳥様、相互して頂きまして有難うございました!



2009/06/21 ikuri