不風流で有名なあの父が、少し情緒を解するようになった。 とは言っても何かを愛でたりとか、ましてや詩を吟ずるなどに勤しむ訳ではない。 ただ足を止めて、または手を止めて一瞬だけを目に留める様になったのである。 それをただ人は至極当たり前の所作の一部だと言っただろう。 しかし生憎、父はその様な視線さえも無駄にする男ではなかった。 また何より、父を一瞬でも惹き付ける物は、限られていたのである。 例えば、散り落ちて土の色になった花だとか、誰かが詩を吟じていたとか。 珍しい西域の品々が置かれた部屋の片隅だとか、果てはただの鳥の鳴き声だとか。 そんなものに父は刹那、反応する。 しかしそれはすべてがすべてではない。 父が反応する全ては、彼の記憶の琴線に触れるもののみであった。 その日は未だ寒い、けれど春の仄暖かさを感じられた日の事。 白梅追憶 都より遠く離れた戦地には北風が強く走り、春の訪れは未だ無い。 人は皆常より足早に道を行くというのに、父だけは平生と変わらぬ速度で馬を歩ませる。 春ならば似つかわしかったろう暢気でゆったりとした蹄の音は、冬場には大層場違いに思えたのだが、 終いにはその遅々とした馬の足ですらも止めてしまった。 何も無い道の片隅で。 「……あぁ、花が咲いておりますね。」 寒さに僅かに震えながら、そう私が言うと、また視線を一点に注いでいた父は一つ頷いた。 その場所は最近制圧した街の、朽ちかけた家の敷地にあった。 一カ所だけ根元から崩れ落ちた塀の所から、今は主人が無いらしい屋敷の様子が判る。 そこに視線を転じれば、白い花が庭の片隅でぽつりぽつりと咲いていた。 梅であろうか、甘く独特の香りが鼻孔を満たす。 「……あれが、どうかなさいましたか?」 身を切り裂くような北風の中で、健気にも春の到来を告げ始めた木は確かに気を引くかも知れない。 とは言え、木はどこにでもある何の変哲もない木であって、私にとってはそれ以上でもそれ以下でも在りはしなかった。 「師よ、あの花をどう思う?」 「どう……とは。」 しかし父には違った様であったようで、私に問いを投げかけてくる。 質問の意図が汲めずに言い淀めば、父は思うままに答えれば良いと言った。 「普通に綺麗だとは思いますが……、ただそれだけです。花は花だとしか思えません。」 白梅は確かに綺麗ではあったが、己の中ではただそれだけであった。 実ならばまだしも、食えもしないし、薬に使えもしない非実用的な物にはとりたてて興味は掻き立てられなかったのだ。 「やはりお前は私の子だな。」 率直に返すと、父はくすくすと笑う。 だが暫くそうしてたかと思うと、不意にふわりと目の前を衣が舞った。 その際に焚きしめられた上品な香が漂って、暫し陶然とする。 それが父の着ていた衣であって、在ろう事か父が馬を下りて件の朽ちた塀を乗り越えたのだ。 と認識した頃には父は既に庭先へと入って行ってしまっていた。 「ち、父上!?」 慌てて馬を降りて追いかける。 だが先を歩む父はそんな私を特に気に留める事はなく、白梅の傍に佇むと先程の会話がまだ続いていたかの様に話し始めた。 「この梅は緑萼梅(リョクガクバイ)と言って、少々特殊なものでな……、」 父の木の根元に手を伸ばした。 父の白い指先が、早くも落ちてしまった梅の花一つを摘んでもう片方の手に裏返しで乗せた。 「見てみよ。普通ならば梅の萼は赤いが、これは萼が緑であろう?」 「……本当ですね。これは珍しい。」 「……私も、教えて頂いた時は少し驚いた。」 淘然とした面持ちで、父は懐かしさに綻んだ声を隠しもせずに応えを返した。 それから梅に手を伸ばす。 ぱきりと小気味良い音をさせて、蕾が多く枝振りの良い枝を手折った。 途端に、揺れた梅が己の香りを辺りに知らしめる。 私でさえその時は、芳しい、と感じたが、手折った張本人の父もそう感じたのだろうか。 横を見遣れば、梅の枝を捧げ持つ様にして手にしていた父は穏やかな顔つきで瞑目していた。 「……誰に教えて頂いたのですか?」 少しだけ自分の世界に入り込んでいた父は、私の問いにはっとした様であった。 だが(自称か他称かは定かでは無いけれど)腹芸の得意とされる父らしく、すぐににやりとした笑みを私に向けた。 指を一本、唇の前に立てて。 「……秘密だ。」 その様に、教えられる事はないだろうと諦めて肩を竦めた。 くつくつと機嫌良さそうに笑う父に溜息を付いて、北風に揺らぐ白梅を指差した。 「その白梅は、どうするのですか?」 「私の陣幕に飾ろうかと思ってな……尤も、陣には水筒の竹筒位しか活けるモノは無いのだが……。 相変わらず陣中は、仕方ない事とは言え些か風情が無い。」 「……戦場で、風情を求められないでしょう。父上は気になさる方では無いかと思いましたが。」 珍しい白梅に無骨な竹筒は、流石に不似合いだとは思ったけれども、花瓶など戦や移動中には荷物にしかならない。 特に拙速を尊ぶ父からしてみれば、武器にも糧秣にもならぬ物は真っ先に切り捨てるべき物に分類されるだろう。 風情よりも効率を重視するならば、花瓶の一つや二つ無い如き、況や風情が無い如き、どうと言う事はない。 それが我が父、司馬懿であった。 臆面も無くそう言えば、横から苦笑気味に溜息が聞こえてきた。 「……師も手厳しい。まぁ、確かに私はあれでも構わぬのだがな。」 「そうでしょう。」 「……怒る人も、もういらっしゃらぬしな。」 「……え?」 聞き返した私の声を聞こえなかったのだろうか、それとも聞かないふりをしたのか。 小さな声で言い捨てた父は応えぬまま、白梅の木などもう未練も興味もないと言わん気に、あっさりと踵を返してその場を去った。 折り取った緑萼梅だけはしっかりとその手に握り締めて。 終 - - - - - - - - - 白梅古夢 - Next is coming soon…? - - - - - - - - - - - - - - 丕様の追悼突発SS(のつもり……18日upだけど)。 仲達パパと師しか出てきてませんし、季節違いますし、何か中途半端な終わり具合ですけども……すみません色々……。 あ、丕司馬前提なのか懿丕前提なのかは決めてません。 続編(<有るらしい)を書く時も出すかどうか悩む所です。(因みに続編は昭師の予定……/ぽそっ) 戻 |