それは懐かしく甘美な、















古夢















 陽は天から降り始めて暫し経った頃であったか。 未だ光の充ちるばかりの自室に入った瞬間、香ったのは嗅ぎ慣れぬ、しかしどこか懐かしい甘い匂い。
 だが部屋の主である司馬懿には、その香りには全く心当たりは無かった。 誰かを客に迎えていた訳でも無いし、彼の官位の高さ故に許可無く立ち入る者も無い。
 故に普段、自身が衣に焚き染めている嗅ぎ慣れた香りとは異なるものは、 その余りにも手の入っていない素朴な香りからして、恐らく何か花の香りだろうかと見当がついた。
 しかし見当は付けたと言うものの、 司馬懿自身に花を愛でる習慣は全くと言って皆無であって、自発的に飾ることなど到底考えられなかったし、 彼の部屋はこの城に在る庭園とは距離を隔てていて、花の香など如何に風が上手く運ぼうとしたとしても到底届く筈も無い。 噎せ返るほどの花が咲き乱れて匂う春なら未だしも、雪がちらつくのではないかと思えるような全てを切り裂かんばかりの北風では、 甘やかな香りを運べるものではなかったのである。
 ではやはりこの室内に何か異変でも在ったのであろう、と。 彼はぐるりと辺りを見回してその原因を探す。 何も心当たりのない状態ではそれは見つけ難いかと思われたものの、すぐに目に入ってきた光景に全てを納得させて、一つ頷いた。



「白梅でございますか?」



 甘い匂いの主は白い梅であった。 五分咲きであろう枝振りの良いその花は、 窓際の長椅子に悠然と腰掛けている司馬懿の主の手に持たれて、陽光に照らされてゆらゆらと芳香を漂わせていた。



「ほう……風流など全く介せぬ仲達でも、流石に梅は判るのか?」



 司馬懿の問いには機嫌の良さそうな、主君・曹丕のよく通る声が返ってきた。 その声は低すぎず、かと言って少年のように高すぎもせずに、若さに満ち溢れた曹丕に似つかわしい。
 その声に満足げに目を細めた司馬懿を特に気にするでもなく。 彼は、持つには些か手に余るのではないかと思ってしまう大枝を少し掲げる仕草を見せながら、 朴念仁と評判の臣下をからかう様に、にやりと口端を上げた。



「……如何な私でも、梅くらい判ります。」



 司馬懿の拗ねた様なむっとした様な応えに、彼はさも楽しいと言わんばかりにくつくつと笑う。 普段から曹丕は、花を愛でる言葉の一つも言えぬ側近をこうしてからかっていた。 彼からしてみれば、自分では到底かなわぬ軍才と、天下に名だたる頭脳を持つ天才軍師が、 風流事に関しては児戯程度すらも理解出来ぬと言うのが、意趣返しも相俟ってか楽しくて仕方ない。 また、そう曹丕がからかう度に子供の様に拗ねてしまう反応も楽しくあった。 だからこの日も『司馬懿で遊ぶ』という、そのささやかな楽しみを満たそうとして言ったのだ。
 だが、一方の司馬懿は片眉を上げたかと思うと、それから彼の予想に反してにっこりと微笑した。



「しかしその梅はどうなさったんです?
 ……もしや、幼かった時の様にまた城を抜け出して遊びにでも行かれましたかな?
 こんな陽も高い内から、我が君は全く仕方のない御方……。」



 まだまだ童のようでいらっしゃいますな? と。
 曹丕にとって、その時の司馬懿の微笑は子供のおいたを窘めている様にも見えた。 それは昔、悪戯をしたり、司馬懿の授業を無断欠席した時によく見られたものだ、と若干懐かしくもあったが、 相手が子供ならば多分似つかわしい微笑は、もう疾うに元服した曹丕には小馬鹿にされている様な心持ちさえして (否、実際そう思われているのだろう。寧ろ子供の頃ですらもほんのりと小馬鹿にされていた感が否めない……)、 正直感じの良いものではなかった。 目論見が外れてしまった事も相俟って、若干興を殺がれて彼は眉を僅かに寄せる。



「全く、そんな訳が無かろう……私はもう子供ではない。
 これは献上品だ。お前にも見せようと思って持ってきた。」

「ふふ、それは失礼を。
 ……しかし貴方に献上する程珍しい花では無いでしょうに。」



 主の不興を大して気にした素振りも無く、くす、と司馬懿が笑った。 そして陽光で尚一層白く輝く梅を、ゆるりと流した視線の端で捉える。 端正な顔立ちも有って艶やかすら含んで見えるその微笑と視線。 しかしそれには、紛れもなく嘲りも湛えられていた。
 自然と風流を愛づる文人・曹丕の元には、各国の珍しい珍品、怪異譚だけが献上品ではない。 珍種、南の花や木から種、遙か西の異国の花まで。 ありとあらゆる珍しい植物も届けられる。 魏には存在しない植物の物珍しい色形や香り、またはそれに付随する逸話の諸々を、曹丕が好むと皆が知っている為だ。
 とは言え。 曹丕はそれらの献上品を、ただ単純に『面白い、物珍しい』などと思って、 豊かな感性と子供のように純粋な好奇心を満たしているだけであった。 勿論、司馬懿には到底理解が出来ないが、 その様な珍しい物のみならず散り落ちて色褪せた花びらや木の葉でさえ、実は彼にとって感慨深い物であるらしい。 例えそこらの花を献上したとて、曹丕は咎める事はしないのだろう。 寧ろ、これを題目に詩作でも、と機嫌すら良くなるのかも知れない。
 だが、梅ならば今が盛りであった。 市井にあるものより、美しく見事に咲いた木が宮殿の庭のあちらこちらにある。 『自らが丹精した梅を』、と言うのならば兎も角、ご機嫌を伺う為の献上ならば身の程知らずも良い所だと言わざるを得ない。

 ―――――井戸の中の蛙、大海を知らず。さては田舎豪族の献上か。

 あまりの滑稽さに内心でもせせら笑う。



「ところがそうでもない。花の裏側を見てみよ。」



 そんな側近の心中を悟ったのか、子供みたいに得意げな顔をした曹丕が手招きをしつつ、そう言った。 主君の言う意図は判らぬものの、司馬懿は言われるがままに近寄って、長椅子に座す主の足元へと座った。 すると白い花が彼の鼻先へ突きつけられて、ゆらゆらと揺れては香った。 それを馬鹿正直にしげしげと眺めて首を傾げる。
 梅は梅だろうと言おうとして、言い切れなかったのだ。 何か足りない様な違和感があった。 何であろうか、と暫し考えて、あぁ、と小さく声を上げて納得する。



「萼が色づいておりませんな?」



 恐る恐る確認する様に答える。 するとその返答は気難しい主の意に添う物であったらしく、満足げに頷かれた。 それにほっと胸を撫で下ろしつつ、黙って主の言葉を待つ。



「そうだ、萼が薄い緑色であろう?」



 珍しい花だからか、風情に丸っきり疎い側近が珍しく正解した事にか。 当初にも増して、心持ちうきうきとした声音で曹丕は説明する。



「だがこの梅はまだ色付いていないと言う訳ではないぞ?  これは緑萼梅と言ってな、名の如く萼が緑色なんだ。」



 ほら、と曹丕の優美な指先が梅の萼の薄緑を指差した。 ほう、と興味深げに相槌を打った側近に、梅が良く見えるようにと更に梅の大枝を間近に寄せる。
 司馬懿は促がされるままに曹丕の指し示した萼だけではなく、ざっと目の前の梅に目を通したのだが、 確かにみな一様に淡い緑色をした萼であった。 普段そこらで見かける梅は、萼の紅色と花片の白との対照が鮮やかで、春を告げる花らしく可愛らしい印象もあったのだが、 この緑萼梅はただ只管に爽やかで、純白の花の色に寄り添い溶け合うような印象が残る。



「遠目から見ると、普通の梅より少し黄味がかかっているように見えるのだが、その微妙な色合いも味が有って良いだろう?
 庭に咲く梅の萼の紅色もまた愛らしいと思うが、この清廉な薄緑もまた春の訪れを呼ぶのに相応しい……。」



 曹丕が詩を吟ずる時の様な、艶を含んだ声で梅を讃(たた)える。 先程は萼を指し示していた指先は、今や白絹の如きすべらかさを持った梅の花片の縁を、まるで擽るようにやんわりと慰撫していた。 彼自身が口にした通り、美しい色合いの梅を殊のほかお気に召したのであろう。
 確かに美しい、と風流という言葉とは無縁の司馬懿でさえもそう思う。 しかしその色の珍しさよりも、それを指し示す曹丕の指先の方が彼にとっては気になって仕方がない。 白梅の何とも白く儚げな花片を、鍛錬で節くれ立ち日に焼けてしまった曹丕の指が撫ぜる度、 その色の対比と仕草にもっと艶(なまめ)かしく淫らな記憶をかき立てられてしまって目を離す事が出来なかった。 いけない、と思いつつも、じっとその動きを目で追ってしまう。



「……おや、珍しいな、お前が花に興味を惹かれるなど。
 それほど気に入ったのなら、お前にも一輪やろう。 何か活けられる物は有るか?
 実は先刻、持ち続けるのも不自由であった故にな、めぼしい所を粗方探してみたのだが、忌々しい事に何一つ出て来ぬ。 ほとほと困り果てておったのだ。」

「ッ!?」



 つい食い入る様に見つめていたからか。 視線の意味を誤解したらしい相手が下賜すると言ってきて、は、と我に返った。 だが誤解だと弁解する事も、思っていた内容が内容だけに無論出来るわけもない。 故に、慌てて相手の要求を満たすべくこの部屋にある物を片っ端から思い浮かべたけれども、 結局は気まずげに視線を揺らめかせることしか出来なかった。 仕方無しに、訝しがる曹丕に蚊の鳴く様な声で呟く。



「……す、水筒くらい、しか……。」

「………………。」

「……申し訳有りません……。」



 曹丕の反応はと言うと、心底呆れた様に……否、実際呆れていたのだろう、長い沈黙の末に冷たい視線と大仰な溜息が返ってきた。 それにビクリと震えて俯く。



「お前に訊いた私が馬鹿であった……。
 全く、私の臣下でありながら風雅を介さぬとは……少しは感化されれば良いものを。」

「……すぐにご用意致します。」

「構わぬ。活けさすのは諦めた。」

「……っ、」



 俯く司馬懿の頭上で、ぱきり、とあえかな音がした。 不興故に枝でも折ってしまったのかと、顔を上げられる筈も無く、 しょげていると、冠を外された挙げ句にきっちりと結い上げた髪に何かが侵入してくるのを感じとった。 俯く司馬懿にはそれが何なのか全く解らない。



「!?」

「動くな。」



 地肌と纏め髪の狭い隙間を何か堅い物が這う。 不快感と恐怖心に顔を上げようとすれば、間髪入れずに叱咤された。 半ばビクビクと怯えながら大人しくしていると、何度かその奇妙な感触が訪れて漸く曹丕が手を離した。 そのまま、つい、と顎を掬い取られて上向かされる。



「……ふ、何て顔をしておる。」



 曹丕が上げさせた顔は何とも情けない顔であった。 唇は不安の為にか、きゅ、と軽く噛み締められていて、本当に己より幾つも年上なのかと疑いたくなる。 その様が少々痛々しくて、唇を合わせて解かせようとしてみるもの、 その意を伺う様に若干潤んだ目が見上げてくるのに、思わず曹丕は微苦笑を零してしまった。

 ―――――此が曹操ですら恐れる男とはな。

 不安げな軍師の手を、先程己が弄くっていた髪へと導いてやる。 身を竦ませていた原因であった物に触れるや否や、指先が予想外の感触に跳ねた。 恐る恐る確かめるように爪先で幾度か撫ぜてから、すぐに恨みがましいと言わんばかりの眼が睨みつけてくる。



「……〜子桓様、」

「可愛いな、仲達老師?
 よく似合っておるではないか。」

「……お戯れを。」




 何の飾り気も無い、けれど艶やかな黒髪には、白梅が品良く咲いていた。 何輪か挿しただけの素朴な髪飾りは、司馬懿が動く度に花片がふわふわと揺れて、えも言われぬ風情を醸し出している。

 ―――――普段生真面目な男にやると、何とも違った風に見えるものだ。

 つい『可愛い』と、からかう様な口調で、しかし本音を言えば、お堅い男はそっぽを向いてしまった。 軽く唇を噛んで、そのまま曹丕の方をちらとでも見ぬその頑なな姿だけを見れば、 年下……しかも教え子にからかわれた故の怒りかと思われたが、 じわりと頬を色付かせているのを見る限り、あながちそうではないのだと知れた。



「事実を言ったまでの事。何だ、嫌であったか?」

「……私はおなごでは有りませぬぞ。」



 『嫌か?』と直接聞けば、司馬懿は可愛らしくない口を利いたものの肯定はしなかった。 当惑気味に視線をまた彷徨わせていた事から見ても、曹丕からしてみればそれは拒絶とは程遠い。 湧き上がる笑いを抑えきれずに、からからと曹丕は笑う。



「活けられるモノが何もなかったのだから、仕方ないではないか。
 嫌ならば、私を納得させる優美な花器の一つでも用意しておくのだな。
 あぁそうだ。 万一、私が納得した暁には何でも望みを聴いてやろう。」

「……言われましたな?  その御言葉、後悔なさいませぬよう。
 この仲達、全力を以って見繕って見せまする。」

「ほう……?
 それは楽しみだな……精々頑張って後悔させてみると良い。」



 と。 挑発する様に口ではそう言った曹丕だが、司馬懿がきっと花器を用意しないままであると確信していた。

 ―――――次に何か花を手に入れたら、また持ってきてやろう。

 その時を想像して、ふ、と笑う。 多分……いや絶対に曹丕は花瓶ではなく、司馬懿の髪に花を挿してやることになるだろう。 花器を用意しないくせに、『何故わざわざ私の髪に挿すのですか!』ときゃんきゃん吠えるのをいなしながら、 『お前が用意しないのが悪いのだ』と囁くのだ。
 それはきっと幾度繰り返したとて同じ筈だ、と曹丕は思う。 花器の一つくらいどうとでもなろうと言うのに、 甘んじて幾たびもその曹丕の悪戯を受けるであろう司馬懿の姿すらもありありと彼の目に浮かぶようである。
 勿論その予想は、『司馬懿の趣味が悪いから』とか、『出来ぬ事だと諦めてしまうだろうから』という予想からではない。 幾ら司馬懿自身に花瓶の良し悪しなど判らなかったとしても、この臣下は曹操さえ厭う程のふてぶてしい気性の男。 理不尽な仕打ちにも耐える殊勝な性格とは縁遠く、本当に嫌ならば地位と財産、能力など、 自分の持てるもの全てを余す所無く使って、意地でも妙なる一品を用意が出来る男こそが、司馬懿という男であるからだ。
 単純に、変な所でこの軍師は素直ではないだけのこと。 天邪鬼、と言ったら良いのだろうか。(まぁ、曹丕も似た様なモノだとは言え。) だから、仮令嫌がる素振りを見せたとしても、その実、大して嫌がってはいない……どころか満更でもない事を曹丕は知っていた。



「なぁ、仲達?
 無粋な物に活けられる位ならば、可愛いお前の髪に挿された方がまだ花も報われよう?」

「……、」



 勝利の笑みを噛み殺しながら、パキリと、小さな枝をまた一つ折り取る。 すると幾枚かの白い花弁が落ち、はらはらと曹丕の蒼い衣の上に落ちた。
 その光景を無言のまま横目で見ていた司馬懿は、観念したのか、それとも度重なる主君の甘い言に呆れてしまったのか。 再び、髪に白梅を挿そうとする曹丕の手を今度は拒む事をせず、近づいてきた相手の唇ごと目を閉じて受け入れたのであった。










 終





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白梅追憶 - Next is coming soon…?
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 宣言していた昭師よりも先に台頭してしまった、 丕様にベタ惚れツンデレ仲達+カテキョで遊ぶの大好き年下丕の丕司馬 or強気襲い受な女王様丕様+ヘタレ過ぎて食われそうな攻仲達の懿丕。(多分前者) どっちにしろ、史実年齢差準拠+子丕(こぴぃ)のカテキョ係仲達(捏造)には違い無いです。 (『子』丕のカテキョ云々は脳内補完妄想です。/死)
 あ、タイトルの意味は続編?で明かされる筈です。 ……因みに途中でカテキョが暴走(妄想?)してますが、HPに載せる直前まではそんな記述は在りませんでした。 餓えてたんでしょうかね――……(<誰が?)


 そしてどうでも良い事だけど、お互いに字呼びなのは譲れません……。 (本名は諱、字は親愛の証、号は通称・ペンネーム。)


                          ikuri  07/09/20