蒼い蒼い曹魏の色を従えて、彼の人は何かを探していた。
 民を、帝都を、曹魏を、中華を、穏やかさと慈愛を込めたかの様な瞳で見渡しながら。
 けれども、私を認めた其の存在は何より冷たく無機質で。
 何より向けられた眼は確かに餓(かつ)え、私を捉えていたというのに、私だけは其の中には存在していなかった。

























空と名と届かぬ君と。























 長たらしい葬儀が、私にとって初めて自分が主導した儀式がやっと終わった。
 見るもの全てが死の色に染まり、聞けるものと言えば泣き声しか聞こえぬ城内から逃れたくて、護衛を振り切った。お待ち下さい、と追い縋る声を背にしてまで目指したのは曹家の家長―――今は帝か―――の許可無くば入れぬ高楼。
 数え違えそうな数がある階段を、着慣れない白絹の喪服を引き摺り、数少ない一人になれる場所へと赴いた。
 無人の、ただ其処に青空が広がるのを見れば、今日は脱ぐ事の出来ない己の喪服など忘れられる、重苦しい気持ちも何もかも少しはましになれる、と安易に考えていたのだ。
 場違いな程に晴れ渡った天だけではなく、カツカツと足音を立てさせる石段にも期待すらして。




「っ、」




 だが漸く昇りきったと思った達成感も束の間、其処には思いも寄らぬ先客がいて、すわ刺客か、と思わず息を呑む。
 装束には剣は不釣合い。
 護衛ならば職務上、剣を佩いたままでも構わなかろうが、実の父の葬儀で長子たる私が佩くのは不味く、故に今は装飾に過ぎぬ小刀しか携えては居なかった。
 それでも無いよりは、と立ち向かう決意をするが、どうやら取り越し苦労だったとすぐに気付く事になった。
 よくよく見ると、その人物は同じく白い喪服を着ていた。また、有る程度は面識のある人物でもあった。
 見覚えの在る後姿が、物心付く前から魏に仕えていた臣下と判って安堵すると共に、場所を先取りされた事に苛立ちを覚える。
 緊張に強張った身体を常に戻して、臣下にほんの少しだけ近付いた。結構な距離があってか、臣下は未だ気付かない。




「仲達、そこで何をしている。」




 思ったよりも厳しい声音になった呼びかけに、父の一番の嬖臣だった男は何の動揺も見せる事も無く緩慢に振り向く。
 初夏だというのに、高台に吹く風は強く冷たい。葬儀を終えてからどれだけの時間を此処で費やしていたのだろう。向けられた無表情な臣下の顔は、平素の青白さも手伝って、纏った白の喪服と同化しそうな程に白く血の気が無かった。




「……これは、曹叡様。」

「何をしていた。」




 跪いて拝しようとする相手を制しつつ、問うた。眼前には何処までも蒼く果てしない空が広がっている。
 その中で佇んでいた男は、将軍とは名ばかりの文官であるせいか、女の様に線が細くて強風に飛ばされてしまいそうに頼りない。
 けれども身体に纏った白色は、蒼穹の一端に消え入り去るどころか、侵し難く清冽な印象を持って存在を主張していた。
 それはいっそ神聖にして偉大。
 薄い肩、薄い胸、細い腰、小さくは無いが大きくも無い背、立派とは程遠い貧相な体格。
 どれをとってもそう思える要素は皆無であったのだが、彼の白が目に付いて離れない。翻る裾、棚引く長い袖が、風に煽られて大きく舞っていた事を差し引いたとしても。




「……国を、見ておりました。」




 臣下はまた視線を落として、広がる景色を見る。
 自分の立っている所からでは無理だが、彼の様に、高台の端にでも立てば城下と其の先に続く中華の大地が眼下に広がる。
 彼は、それを見ていたのだ、と感情を一切削げさせた声音で応えた。




「国を? 何故?」

「さぁ……判りかねます……。」




 相手には、普段の覇気が何処にも無かった。能面の如く冷え切った顔で、玻璃の如く凍てついた瞳で、随分と透き通ってしまった声音で。
 そういえば粛々と式を執り行っていく中でも、体の中心を抜き去られてしまったかに見える空虚さを感じさせた。
 其の様はさながら生き人形であった。
 彼を多少なりとも知る者であれば誰であれ、違和感を感じ、彼の抱えた巨大な空虚に気付いただろう。現に、表向きは冷静ともとれた涙さえ流さぬ彼の立ち居振る舞いは、冷酷だ情が無いだとの非難は一切出ずに余計皆の涙を誘ったのだ。
 だからこそ、




「……お前が、こんな所に居るとは思わなかった。」




 父の傍から離れないだろうと思っていた、と言外に言う。すると司馬懿は返事の代わりに、自嘲にも似た笑みをごく淡く浮かべた様で、少しだけ口端を上げていた。




「……一番、近うございましょう?」




 天に? 父に? 国に?
 何に、とは何故か訊けなかった。
 無言でいると、向き直った彼が、そう思いませぬか、と小さく問うてくる。だが眼に見えぬ物や戯言などを愛したあの父ではあるまいし、何も此処には無いだろう、と冷たくも口を付きかけた。
 くだらない事だが、私は嫉妬をしたのだ。父が死んでも司馬懿の心を縛り続ける事とに。
 しかし一瞬、また言葉を飲み込む。
 死を悼む色を身に付けた国の忠臣の傍に寄り添うようにして立つ父が、本当に居る様な気がしたのだ。
 それは幻影などではない、妄想などでもない。寧ろ、気配ですらない。
 もっと漠然としたものだ……父は確かに此の空間に存在している気がする、そんな曖昧で不確かなもの。
 もう戻らぬ日常の、臣が紫の朝服を纏っていた在りし日の様に。何ら変わる事も無く其処にいて、私を彼に近づけさせまいと言わんばかりの拒絶の色が漂っている。
 彼は気付いているのだろうか? 父が居る、と知っていたから、此処を訪れたのだろうか?




「……曹叡様?」




 訝しげに呼びかけられた声に、我に返った。死人が存在している、などそんな馬鹿なことは認めない、認めるものか。
 自分に向けられた、臣下の何の感情も浮かんでいない凪いだ瞳を見ていると殊更にそう思う。
 蒼空を背に立っている司馬懿を、何かに気圧されたのを見透かされぬ様にしっかりと見据えた。
 死んでからも縛られ続けるなどあってはならない。
 私がいるというのに、させはしない。




「……人は死ねば土に還るのみだ。何も、此処に在りはしない。」

「……。」




 言えば、ゆっくりと瞼が伏せられる。何も返っては来ない。
 風が代わりに応えるかのように強く吹いて、臣下の髪を攫っていった。
 その沈黙は、唯、肯定したくは無いだけなのだろう。
 彼は軍師。
 理論を愛し、不確かな物を信じぬ現実主義者であるからして、私が言った言葉を信じていない訳では絶対に無いのだ。




「……判ったなら帰るが良い。此処は朕の許し無くば入れぬ場所であろう。存ぜぬとは言わせまいぞ。
 幾ら其方と言えど、斯様に軽々しく立ち入れる所ではない。」

「……陛下が、一々許可を取るな、と仰せでございましたので立ち入ってしまいました。」




 その時を思い出してか彼が微かに笑みを浮かべたのを眼にして、思わず眉を顰めた。
 知っている、そんな事。
 あの冷酷な父が、お前を殊更に許容した事など嫌になるくらい知っている。
 私は一刻も早く司馬懿を、此の現実から―――――否、違う。『父』から引き離したくて、言っただけだ。
 要するに子供染みた嫉妬の発露。
 自分で言った事ながら、愚かさに嫌気が差した。




「申し訳ございません。二度と殿下のお許し無しに立ち入る事は致しませぬ。」




 二度と……、か。
 臣下の謝辞に心中で自嘲する。
 此処に立ち入る事が、ひいては、臣下に懐古させる事にしかならないと感じていた自分は今後、彼にだけは許可を出す事は無いだろう。
 彼に許可を下していた、唯一の男は既に鬼籍。
 そして今や、許可を下すべきは私にのみ在るとなれば、二度と此処に立てる筈が無い。曹魏一、恐らくは中華でも頂点に居られる程に賢い此の臣下は、果たしていつ気付くだろうか。既に今か、はたまた明日か、それとも。司馬懿はその時、どの様な反応を返すのだろう?
 彼のその姿に思い巡らせていれば、自然応えが無くなっていた。
 だが彼はその様な事は全く意に介さない様子で、只淡々とした動作で膝を付き深く深く頭を垂れた。




「早急に立ち退きまする……御前、失礼致します。」




 彼はゆらりと白を翻して、しっかりした足取りで此方へと向かってくる。軽い足取りではなかったと言うのに足音を立てることも無く、両者に広がる長い長い距離を埋めながら。
 何かが臣下を……私が止めさえしなければ、そのまま振り返りもせずに立ち去るのだろう。其の未練の欠片も見せない素振りに、最初から感じていた苛立ちが益々募っていく。




「……私はもう『陛下』だ、仲達。」




 擦れ違いざまにそう言ってやる。
 彼が緩慢に横を向き、私を見上げたのが判った。黒い瞳に応えるように、眼前の蒼から眼を離して視線を合わせてやった。
 そうしてみると、幼い頃は此の男に見下ろされるばかりだったのが、父と変わらぬ背丈になった今では見下ろす側になったのだと、初めて実感する。それと同時に、彼の睫が案外に長い事や、瞳の色素が少し薄い事も初めて知った。
 思えば、彼とこんなに近しい距離を取った事など、幼い時以来かも知れない。




「……では、『陛下』。」




 その眼がすぅっと細められる。




「『陛下』で在らせられますお方が、軽々しく一介の臣を字でお呼びになりませぬよう……。」




 間近で見た顔は、予想外に若かった。
 四十になった所で夭折した父の、彼はその三つ下……となればそれも当然か。整った顔立ちの、男の癖に存外柔らかそうな唇が、幼子を嗜めるが如き柔らかさで諫言を紡ぐ。




「『陛下』は、臣を平等に扱わねばなりませぬ。」

「……フン、御託を言いおって……。先帝は良いというのか? あの男は随分とお前を贔屓していた様だが?」




 皮肉にしては随分あからさまになった言葉に心中で舌打ちをした。
 臣下も言葉に嫉妬染みた響きを見つけたのか、ほんの僅かだけれども瞠目する素振りをみせた。また風が強く吹き、彼の髪を乱して視界を遮った為、すぐに消えてしまったのだが。
 暫しの沈黙の後に、剣など碌に握らぬ華奢な白い手が、己の黒髪を艶めいた仕草で掻き揚げる。




「あぁ、貴方様はもう『陛下』に在らせられまする。……ですが、」




 言葉の先を予測していた己が無意識に耳を逸らしていたのだろうか。手を伸ばせば届く距離でも、声は容易く風に掻き消されて少しばかり間遠に聞こえる。
 彼は小さく微笑った。
 あどけない子供がする様な、自分だけの秘め事を口にする心地よい緊張感を髣髴とさせる声音をさせながら。




「あの方は私の唯一人の『主君』に在らせられます……仲達、と私をお呼びになるのはあの方だけで良いのです。」




 それは。
 母が子に向ける様な微笑にも、愚かな私を嘲笑ったかにも見える、曖昧で美しい微笑であった。

















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晉書・司馬懿伝を見た後のせいか、丕司馬←曹叡になった模様。
この後少し続きます……。