涙したのは、悔しかったからじゃない―――――――蒼が眩しかったから。

























空と名と届かぬ君と。後編























 此処は寒くて風邪を召されます故、あまり長く居りませぬよう……。
 臣下は最後に、型通りの心配だけを口にして階段を下りていった。
 微動だにしない『陛下』など、矢張り振り返りもせず、ましてや歩調も鈍らせず。




「……、」




 臣下の気配が完全に無くなってから、空へと向かって、一つ、二つと歩を進める。先程まで臣下と対峙して居た時には果てしない距離に思えたが、朱塗りの欄干の前で立ち止まるにはそれ程時間は掛からなかった。




「……、」




 昼を少し過ぎた時刻にも拘らず、見渡した城下には人が居ず、ひっそりと静まり返っている。常ならば上空で旋廻する鳶か隼が居て甲高い鳴き声を響かせるのだが、それすらも無い。初夏の陽光に照らされる全ては穏やかな景色となる筈だが、しめやかに泣き沈んでいるかの如く何処かうっそりと影を落としていた。
 皆、優秀な皇帝の余りにも早い崩御を悼んでいるのだろう。
 そうされる事は良い事だ、と純粋に思う。父としても、皇帝としても、誇るべき存在だったという証なのだから。
 だが。




「……いっそ、暗君で在れば良かったものを……っ!!」




 あの父に優秀ささえなければ。
 優秀な皇帝の後継だからこそ求められる振る舞い、発言。
 その重圧から逃れられ、此の双肩を潰さんとする重圧を無くした、現実には有り得ぬ己で居られたかもしれない、と何度思った事か。
 常々そう考えてきた事が、父の死んだ今になってもまた少しばかり付け加わった。
 高台に一人佇み、魏を見下ろしていた司馬懿の。
 何かを見守る様に、……探す様にしていた愛しげな眼。
 当然、あの眼は私に向けられる事は、無い。『己を見ろ』、と哀願でもしない限りは。
 しかしそうした瞬間にあの男は私を見限り、顔には出さずとも心中で嘲笑するだろう。
 そうせずに彼を手に入れる為には、少なくとも全てが父に勝らなければいけない。それでさえ、偉大な祖父にも懐かなかった臣下が何故父だけを択んだのか、魅かれたのか、を判らないままでは望みも無い。
 父一色に染まった心の色を穢す術など判り様も、無い。




「お前も堕ちたな、叡よ――――――高々一介の臣如きに、何をそう固執する?」




 あぁ、全く以ってくだらない、愚かしい考えだ。
 愚かな思考と自身を打ち払うかの如く、横一文字に腕を払い、手近の柱に拳を打ちつけた。




「ふ、くくっ……は、ははは……」




 司馬懿が去った高楼。
 其処には先程の様な不思議な感じが、塵とも無かった。
 儚げに佇んでいた臣下が全て連れ去ってしまったかの様だ。当然、父など居やしない。
 残されたのは、広い蒼穹と私の物では無い国家、がらんどうの空間、孤独な私一人きりだった。




 冷たい屍を前にしても乾いていた頬が、初めて何かに濡れた。

















- - - - - - - - -

- - - - - - - - - - - - - -
本当に少しだけ続いた続編。
このあと曹叡様は嫉妬の余り、恋敵(?)曹丕様の遺言を無視して司馬懿を更迭しちゃう勢いで。(<史実を歪んだ目で見てます。)
五丈原前にやっと冷静になると良い……(悶々)