行き先も告げられずに突然唯一人で放り出された幼子の様に、呆然として戸惑うしかない。 けれども救いの手など、私は決して必要とはしていない。 欲しいあの手は、もう何処にも無かったのだから。 蒼穹傾延 幾段にも重ねられた階段を下りていく。 吹きさらしの階段は、日差しが惜しみなく降り注いで暖かい。 国で最も悼むべき日には場違いなほどのそれに、例えばいっそ雨で在れば良かったのに、と思った。 そう、何も聞こえぬ、何も見えぬ雨の闇の中であれば、と。 此では曹丕が未だ傍にいると錯覚してしまいそうになる。 ―――――曹丕、殿……、 もう口にする事は叶わぬ名を心中だけで呟けば、つい先程、高楼で見た光景を思い出した。 天空には蒼。 眼下には魏。 まるで全てがあの日と同じであった、と考えて、しかし首をやんわりと振った。 もう何年も昔になる、あの日。 彼は私に、自分の眼の届かない世になったら此の国を私の好きにしろと言った。 その頃の魏は、その主と同じく若さに溢れ、活気に満ちていた。 しかし今、嘗てのその言葉を抱いたままで、見下ろしてみれば、嘗ての欲しかった国はどこにも無い事に気付かされた。 同時に、散々纂奪を夢見てきた野望が嘘の様に色褪せていく事に恐怖すら抱いた。 彼が居なくば魏は、私にとっては抜け殻に等しかったのだ。 彼が居る国だからこそ価値があった。 今や纂奪など欠片も興が乗らず、意味も無くなってしまった。 愚かな事に、今更ながらそれを知る。 さて此からの魏に奪う価値は生じるのだろうかと考えていると、彼の後継たる皇帝の姿がふっと浮かんだ。 他ならぬ我が主君の息子なのだから、きっと彼は優秀な皇帝になるであろう。 聡明で、彼よりも軍才にも長けている。 のみならず彼の人に似て、面差しも濃く(きっと造作だけなら彼より整って美しいのだろうが)、 子供じみた嫉妬と苛立ちを私にぶつけてくる事も、私に執着する奇特さすらも良く似ていた。 ―――――そんな男を、いつか主君と私は認めるだろうか。 そう考えてすぐに、否、と呟く。 皇帝ならば紛れもなく曹叡も値する。 きっと私を使いこなすだろう。 それは認めよう。 しかし、主となれば話は違う。 主とするには、自ずから心服する程の強い好意が必要だと思うが、それを彼に抱いた事は今までに一度たりとて無い。 ――――仮令、相手からの激情をぶつけられたとしても。 また、そもそも私自身が人に飼われるのを良しとしていないのだ。 先程、曹叡に『私がお前の主なのだぞ。』と言われた時も、 何を戯言を、としか思えなかったのだから。 貴方は私を得られるとお思いか? 祖父さえ飼い慣らせなんだ此の獣がお前如きに? 地位に頭は下げても服従等してやれぬ。 頭の中で様々に言葉が駆け巡って今にも口をつこうとしていたが、結局は押し留めた。 代わりに、と言っては何だが、その幼さが逆に愛しくて少し笑ってしまった。 今では遠い昔の事だ。 曹操から放り捨てられる様にして下賜された私に、 『私のものになれ』と面と向かって本気で言ってきた男を思い起こされてしまったのだ。 「何と愚かで……愛おしい事よ。」 後数段。 それだけで高楼は終わる。 風が悼む様に物寂しく啼く中、振り返って仰ぎ見た。 きっと、此処へ来る事は二度と無いだろう。 近づく事さえ有るまい。 新たな皇帝がきっと許さない、と言うのも在ったが、何よりも興味の無くなった物を好んで見る訳もない。 もう一人きりでは見る事は出来ないと思うし、見たくもなかったのだった。 「……別了、我的夢想、我的主君。」 きっと私は、この日を忘れない。 最期に仰いだ空は、それでも眩い程に美しい青であったことを。 終 - - - - - - - - - 次 - - - - - - - - - - - - - - 空と名と届かぬ君と。の続編……です(何) ちまいを出そうかと思ったらちょっと出来に納得行かなかったので、先にこっちを出してみました。 でも実はこれも続編有るという……(死) とりあえず、仲達が乙女でごめんなさい!(平伏) そういえば最近、叡懿をよく見かけます。 丕司馬で叡懿……素晴らしいですね!(何) 晋書見てると叡懿書きたくなるんですよね……いつか片想いじゃない叡懿書きたいです。 まだ私のは、丕⇔懿←叡 なので(笑) 傾延……しきりに慕うこと。傾慕。 07/12/01 ikuri 戻 |