其の美しき蒼に背を向けて、眩き残光のみを眼に映す。 蒼穹傾延・後篇 「……司馬懿殿、この様な所に居られたのですか」 そのまま高楼を見ていると、落ち着きを持った年嵩の声に呼ばれた。 陳羣、字は長文。今は亡き武帝(曹操)の時代より仕える、魏帝国の重鎮である。 恐らくは司馬懿以外で、最も主の死を悼む者の一人であろう。 「…おや、陳羣殿。一体、この様な所でどうなされました?」 年長の陳羣に敬意を払い、最後の壇から未練を抱く事無く降りて一礼する。 それから改めて相手を見ると、同じく喪服に身を包ませた陳羣は、彼のその清廉実直で情が深い人柄もあって、 自分よりも随分と死者を悼む白が似つかわしく見える。 普段の面影もなく血の気の失せて益々憔悴した顔は、ここ数日で一層の老成を見せ、 穏やかな眼差しをする目の縁を仄紅く染めていた。 「陛下ならば高楼にいらっしゃいますが」 「いえ、私は司馬懿殿を探しに……、先帝のお側にはいらっしゃらなかったので……」 薄く微笑みながら告げると予想に反して気遣わしげに相手が言い淀む。 彼は私の愚かな野望も、その上で結んだ曹丕との歪んだ関係すらも全て承知で、尚、慈愛といたわりに満ちた目を向けていた。 彼は心底人を貶めたり、嫌う事のない人間であったからだろうか。 決して人や道に背かぬ彼の好ましく愛すべきそんな人柄は、亡き曹丕も敬愛するものであった。 だからこそ臣下とは言え、年長者として敬ったばかりか、友として接して欲しいと請うたのである。 そして彼は私と共に遺勅を託された数少ない人間になった。 正直な話、彼を羨ましい、と純粋に思ったことが何度もある。 曹丕からの寵愛の寡多などではなく、人を素直に愛し、道に背せんとする愚かな思考がない事にだ。 もし私がそんな人物だったのなら、これほど無機質に曹丕を悼む事も、遺された抜け殻に絶望する事も無かったに違いない。 曹丕と確かで真の情が在る関係が築けたに違いなかった。 「『生きては七尺の形有り、死しては一棺の土のみ』……先帝のお言葉でした。 さすればあれは先帝の形はしていても、先帝ではありませぬ。私が付いておらずとも構いますまい」 「司馬懿殿……」 陳羣が心配げに顔を曇らせた。今はまだ喪の明け切らぬ、しかも葬儀の直後。死を悼まぬ臣は、あらぬ噂が立つ。 元より曹操の時代から叛意有りと警戒されてきた自分だ。 だのに高位に就き、曹丕の寵愛を受けた為に妬みも悪意も人一倍持たれてきた自覚がある。 曹丕の絶大な加護を失った今、些細な行動ですら命取りであるし、のみならず、万一失脚でもしたら、呉蜀はきっと好機と見るだろう。 呉は臣従を翻し、蜀は傍観を止めて侵攻を進める筈だ。 さすれば、若き皇帝に代替わりした魏はたちどころに滅びるやも知れなかった。 「……ご安心を。自分の立場など分かりきっておりますよ。 用は済みました故に、これから参ります。…精々、涙でも奉りましょう」 私は、悲しみに暮れる忠臣を演じてみせる、と陳羣に告げた。 彼は同僚を失う事も、それによって社稷が危うくなるのも避けたいのであろうと思ったからだ。 彼は誰よりも誠実で、魏に忠誠を誓う男なのだから。 それに私とて魏を揺るがす事は忌避したいことであった。幾ら魅力の無くなった国とは言え、此処は曹丕の国であった。 それを何故彼以外の為に損なわねばならぬのだろうか。 「いえ、いいえ、そうではなく……」 しかし、それは違った様で、陳羣は否定を口にした。 何故か袂から手巾を取り出すと『失礼』と声をかけて、彼が私の頬をぽんぽんと拭った。 「陳羣殿、何を……?」 文官らしく合理的な行動を好む彼が、奇怪な事をしたのに対して、不思議に思って訊く。 彼は一瞬目を見開いたかと思うと、くしゃりと顔を歪ませた。 「…気付いてらっしゃらないのですね…卒のない貴方らしくもなく……」 涙の混じった声が掠れながら響く。拭われた頬が風に晒されてひやりとした。 頬に手を当てると、湿った感触がして、何だと思う間もなく触れていた指先に新たに何かが伝っていく。 「どうして、涙など……!」 「悲しいからでしょう? …或いは寂しいからかも知れませぬが」 「馬鹿な、悲しい、など…ましてや、寂しいなどと思う筈が…だって私は…!」 曹操に召されて芽生えた天下の纂奪。曹操、そして曹丕をも踏み台にして為し得ようとしたことであったけれど。 不思議なまでに色褪せた野望。 未来に漠然と感じ始めた虚無。 それが全て曹丕を失った事によるものだったと言うのは先の景色に知った。 だが、それ程までに私の中で曹丕は大きい存在であったのだろうか? 意思を裏切る程に深い悲しみにかられて自覚なしの滂沱の涙を流す程に? 「嗚呼、存じておりますとも。しかしだからと言って、悲しみを我慢なさらなくても宜しいではないですか。 泣きたい時にお泣きなされば宜しいと思いますよ。 …少なくとも私はそうして生きて参りました」 「陳羣殿、」 「…若く優秀な才ばかりが早く逝きますからな…。つくづく不才な我が身が恨めしい…」 呂布、曹操、曹丕と三度主君に逝かれ、荀ケ(イク)、郭嘉と親しい朋輩を亡くして来た事を言っているのだろう。 数多の悲しみを乗り越えてきた男はそう言って苦笑した。 その目元には新たな涙が滲んできていて、既に朱に染まっていたそこを余計に色付かせていた。 「失礼……年寄りは涙脆くて弱りますな」 「いえ…」 ほろ、と零れ落ちた滴を陳羣が拭った。年を重ねた男の、皺が刻み込まれた指先でそれは脆くも崩れた。 指を悲しみに染めていこうとばかりに、たった一滴(しずく)の悲しみがじわりじわりと滲み込んでいく。 だが、陳羣はその手を指先ごと拳にして握りしめた。強く、強く。感情を克服せんと誓うが如き一瞬の静かさで。 「……しかし、司馬懿殿、仮令この悲しみを袖で拭えども、涙するのを止めてはなりませぬぞ。 我等は幼い魏と若き陛下を託孤された身。泣いて泣いて…この悲しみを乗り越えて行かねばならぬのです。 ましてや殉ずるなど以ての外です」 「ご冗談がお上手だ…陳羣殿は私が殉ずるとお思いなのですか? ……御存知だとは思いますが、生憎私はその様に殊勝な性格では在りませんぞ」 私は愚かな事を口にした陳羣を一笑に伏した。しかし彼もまた笑った。痛ましさを滲ませる響きで。 「何を仰いますか……貴方は御自分の顔をまだご覧になっていないのですか? あの、野望に燃えていた瞳はどこまでも静かではないですか。 まるで心だけ既に殉じてしまったようですよ?」 「…!」 息を飲んだ私に、彼は労りの色をすっかり拭った強い眼差しを向けた。 その強さは政務の時にも皇帝の諮問の時にさえも目にした事のない物であった。 「先帝は遺勅で、誰であろうとも殉じる事をお許しにならなかったのです……故に司馬懿殿、 例え貴方の心でさえも陛下に殉じる事は決して許されませぬ。……僭越ながら、私とて許す心算もありませぬ」 死ぬな、と非力な文官は私の腕を掴む。曹丕に殉じて死に絶えんとするばかりの臣下と其のの心を此岸に引き止めるが如く。 「…明日にも、先帝の遺勅通りに棺を首陽山にお送り致します。 本当に今生の別れとなりましょう…ですから司馬懿殿、泣くのならば今宵まで…」 涙が頬を伝う。するりと頬を流れていく悲しみと共に腕に込められていた力は抜け、腕に柔らかく添えられるようになっていた。 「…それでも泣かぬと言うのでしたら、共に悼みましょう。私達の良き主、良き弟子、良き友の為に」 「そう言えば仲達殿、」 「…はい」 良い大人である己が、陳羣に手を引かれて先導されながら、人気の無い回廊を歩いた。 まるで子供のようだ、と思い、そう言えば彼は自分や主よりも一回りは年が上だった、と思い出した。 彼にしてみれば、主も己も年の離れた弟か息子のように感じていても可笑しくはなかった。 「高楼に行かれていたのですな」 ふと思い出したように口にした陳羣は、単純に確認しただけなのだろう、声には咎める響きが全くなかった。 「……ご安心を。二度と行く気は在りません」 言い訳がましくなったが、そう呟いた。 陳羣は足を止めないままで振り返ると、眉を少しだけ困ったように寄せてふわりと微笑んだ。 「左様ですか。そうして下さると助かります」 「陳羣殿?」 「あの方は姿を眩ます時はいつも貴方を巻き込みましたでしょう? だから、貴方が連れ去られてしまったらとても困ります」 これからとても忙しくなるのですから、と彼は苦笑した。 『誰に?』 とは聞かなくても分かった。 今や魏の重臣となった司馬懿を連れ去る事の出来る人物は一人しかいない。 『内に籠もっておらずに外を散策したらどうだ、だからお前は生白いのだ』と何やかんやと言って自分を外に連れ出した男。 一見、自分の恣意で臣下を振り回しているだけかと周囲には思われていたが、 執務過多な臣下を案じているか、または彼が人寂しい故に誘うのだと知っていた。 …寂しがり屋の男、今はさぞかし寂しかろう。 ふと、そう思う。 『彼方』には既に彼の知人…彼の父に兄弟、将軍、妻や夭折した子供、それに先年の流行病で逝去した文人達が多く待っている。 だが、最も彼の心に沿ってきた者達は居らず、存外に人好きな彼にはさぞ寂しく感じられるだろう。 しかも彼は気難しい面もあって、難なく付き合えるのは生者である己や陳羣など本当に僅かだったのだ。 だがその僅かな者もまたそんな生き難い彼の気質を呆れながらも愛おしく思っていた。 『寂しい』、などと呼ばれてしまったら抗えなくなりそうな程に。 「…甘やかすといけませんからな」 「…左様ですね。少しだけ、我慢して貰いましょう」 己と同じく、彼をよく知る男が苦笑し、きゅ、と繋いだ手に力を込める。 「それまでに手土産を用意しないとなりませぬな。きっと拗ねていらっしゃるから」 「…確かに」 陳羣の言葉に頷いた。繋いでいない方の手を見遣る。我ながら細くて頼りない指だ。 だが、この手は軍の采配を揮う事を許された手であった。 「必ずや、この手で呉蜀を」 ぎゅっと骨の白さが浮き出るほどに強く拳を作る。 陳羣はその様子を静かに見ていた。 彼の方が小柄であったから僅かに見上げるようにしていたが、その時初めて空を見上げたのだろう。 彼が驚いたように眼を見張った。 「…嗚呼、何て蒼い空なのでしょうか」 そうですね、と私は呟いた。 陳羣の瞳は蒼を捉えて明るい色を放った。 眩いばかりのそれは魅惑的に映ったけれど、私は決して其の禁色を見上げることだけはしなかった。 終 - - - - - - - - - 前 - - - - - - - - - - - - - - 初心に戻って完結させてみました。よ…4周年だから!(半月過ぎてます) 長文殿は、丕+四友で一番の年配ぽいので、周囲(特に丕と仲達)をそっとサポートしてくれてたら萌えますよね。 人生経験も中々凄まじいので、きっと芯は逞しい筈ですし…きっと時に優しく、時に厳しくしてたに違いない。 当に子世代のお母さん。(ぇ) 関係ないですが、長文殿は呂布軍時代があったんですよね。 陳宮殿と同姓+数少ない文官同士ということできゃっきゃっ…いえ、仲良くしてたら超萌えます。 10/07/30 ikuri @ここから薀蓄と濃い萌どころ語りなので嫌な方はブラウザバックして下さい。 海石的には、丕様亡き後の仲達と長文殿の明暗、魏への忠誠の尽くし方の違いが萌えます。 仲達は対蜀戦線・対公孫淵で指揮官として実績を挙げたことで、重臣として絶大な権力を握り、 魏後半で活躍する人材を数多推挙するなど華々しい活躍をしたのは良く知られてます。 しかし一方の長文殿は、昔は曹操の寵臣である郭嘉の素行を批判したりなど清廉実直頑固な面があったのですが、 曹丕没後は公の場で上奏しなくなり、しまいには他の官(四友の呉質)に仲達の働きぶりと比較されて糾弾されています。 長文殿の死後に皇帝に宛てた奏上文が山ほど発見された事で名誉を挽回したのですが、ひっそりと陰で魏を支えるようになったのは、 主でもあり友でもあり弟子でもあった丕様を失ったからなのでしょうか…。 仲達が仕事に打ち込んでどうにかしようとするタイプなら、長文殿はひっそりと静かに悼むタイプに見えてきます。 どっちも切な過ぎます。(夢見ててすみません) 戻 |