風に乗って遠くから弦と笛の音、笑い声が混じりあって届く。
清光は青く、届く限りを包み朧気に照らしていた。
人肌に馴染む空気は今宵の全てを霞の如く仄かにぼやけさせる。
例えば、交わした言葉、合わせた視線、触れられた熱。
全てが幻の様に夢の様に不確かなまま。















夜の下で・前篇















 その静まり返った室内では木簡を手繰り寄せる音だけが響いていた。 唯一の光源は頼りなげに揺らめきながら仕事に従事する小さな人影を映し出す。 机上には書簡が小さな山となって処理を待っており、それは人影より大きい山影になって映っていた。
 司馬懿は最後の行まで書き終えると徐に屈み、今し方完成した書簡を床に広げて置いた。 涼しい室内では竹簡の文字は乾き難く、誰もいないことを良いことに墨の乾くまで干している。 床には既に乾いた書簡が幾つか在った。 それらを手際よく丸めて処理済の山に移すと、すぐにもう一つ手にとって筆を滑らせ始めた。
 灯りは一つきりと言えど仕事には差し支えのない夜で、戸口からは清光が差し込んで随分と明るい。 風は時折宴の音を微かに運んで来るものの、静かに過ぎる夜を壊して彼の勤勉さを乱す程でもなかった。



「……、」



 だが、それもその時までだ。
 唐突に湧き上がった一際大きな歓声が、司馬懿の淀み無く進んでいた筆を止めさせたばかりか置かせてしまう。 小さな頭が初めて戸口を見た。

 ……誰かが詩を良く詠んだか。

 今宵は見事な満月であったから詩宴を開くのだと聞いていた。 上司や一部の同僚はその恩恵に預かり、残りも彼に仕事を押しつける形で早々に切り上げて帰っていた。
 光と歓声。
 両方に誘われる様にして戸口へと赴く。 人気の無い回廊に出るとそれらはより一層感じられた。 目の前に欄干によじ登って柱に凭れれば木肌がひんやりとした感触を齎す。

 先程のは彼の方がお詠みになったのだろうか。
 父親に似て詩に巧みと言うから有り得なくはない。

 空気は部屋を通さないせいか庭の夜露を含んでしっとり透き通っていて心地よく、心が落ち着くままに思いを巡らす。 仰いだ望月は雲もかからず見事な姿を見せていた。

 彼ならば一体どの様な詩を月に託して詠まれるのだろう?
 懐古した詩、己の詩、別離の詩、誰かを想う詩……、想像もつかない。

 彼は唇を少し咬んだ。 詩の才が少しでもあれば良かったのにと初めて思った。 そうすれば末席にでも加わることが出来、彼の詩を聴ける僥倖に与る日もいつか一度位は有ったのかもしれない。
 その有り得ぬ未来を残念に思う。 如何に天才、司馬の二達よと騒がれても彼には詩の才能だけは皆無であった。 とは言え物知らぬ幼子では有るまいし、形こそ嗜みとして整えられる。
 しかし己は生粋の軍師肌だと。
 所詮は物事を理論的にしか処理出来ぬ朴念仁なのだと。
 人に言われずとも確信出来る程に出来た詩は何とも味気ない文字の羅列にしかならないのだった。 今まではそのような些細なことなど気にも留めなかったが今はそれが酷く口惜しい。
 袂を探り、依然賜った薬入れを取り出して見入る。 玉で精巧な細工を施されたそれは手の中で月光に晒され翠色の清婉な光を放っている。 それを見ているといつも不思議と何処か落ち着くのだが、 それと同時に、何故公子は自分などを気にかけたのだろうと言う考えが頭を占めて落ち着かなくもなる。
 彼の頭の中では、曹丕と言う公子の噂と、以前受けた振る舞いが結びつきにくくなっていた。 人の噂では曹丕を、文武に優秀だが親にも理解出来ぬと厭われた冷酷な公子と見做していたと言うのに。



「……、」



 実のところ司馬懿もあの日までそう思い込んでいたので、実の父と対峙しているとは信じ難い応酬には噂の信憑性を確信していた。 しかし庇ってくれたこと、傷を気遣ってくれたことを考えるにつけ、漠然と彼の人品を信じる方へ変わっていた。
 実は優しい青年なのではないか、その冷たさは上辺か若しくは一面だけではないのかと。



「くくっ……、」



 そこまで思って、思わず司馬懿は小さな自嘲を漏らした。 良く知らぬ相手の何を判った心算でいるのか。 ましてや相手は一国の公子。 現在、数多いる文官の一人に過ぎぬ司馬懿とは遙か隔たった存在である。 接点などあれきりだ。 そして恐らく二度と無い。



「……愚かな。」



 曹操に厭われて上を望めるか判らぬ身では、これから曹丕と接点が有るかどうかなど到底言えはしない。 公子が噂に違えぬ、上に立つべき才覚を備えているから尚更のことであった。 もし相手が愚鈍な公子であれば追従し佞臣として取り入ることも出来たろうが、生憎公子はそうではなく優秀な男であった。 その上、それ以前の問題で、司馬懿自身が凡愚な主に仕えることも追従することも潔しとしなかった。

 ……だからこそ気になるのか?
 手に届かない存在だから?

 玉を指の腹で磨く様にして優しく撫でる。 そうする度に艶を増す光は未だ幼い形の指を翠に染めた。
 中身は疾うに無く、軽い。 それでも未だ持っている。
 傷は薬を使って程なくして癒えた為に此は用済みであるけれども、 かと言って公子の言った様に売る事も人にやる事なども何故かしたくはなくて手放せなかった。 それ所か、子供の心の支えにすらなっている。 彼を歓迎していない周囲との衝突に磨り減った心は、ちっぽけな薬入れを見ただけで多少の差異はあれど慰まれた。 その度に女々しい自分を何度唾棄した事か、彼には判らなくなっていた。
 また歓声が夜空に響いてきて、沈んでいた思考が再び浮き上がる。 未だ暫く詩宴は終わらない様であった。 それどころか酒も周り始めてきてか、益々賑やかさを増して行くばかりだ。
 ほう、と一つ溜息が回廊に漏れた。 彼は騒々しすぎるのも好きではなかったが、辺り一帯が死んだ様にひっそりと静まり返っている此処にいると、 気が滅入って仕方がなかった。
 視線を落とすと、薬入れと、青白くまるで人形の様に生の感じられない自分の手が仄かに光を放ち、ぼやけて映る。
 また一つ大きく息を吐いた。 あの大きく美しい大人の手には程遠いのが嫌で、眉を顰めて目を逸らした。 代わりと言わんばかりに、結い上げて小さく見える頭を欄干の柱へ預けてぼんやりと月を見遣る。 堂々たるそれは、大地から立ち昇る微かな旋律を受けて紺の空の頂点へ差し掛かろうとしているところであった。 少し眩しくて、自然目を細めると何故か満月の縁はじんわりと柔らかさを増したのだった。










 終





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月夜の下で・後篇
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 芽生えたちまいのその後。 仕事を真面目にこなしていますが、そそに反抗したので同僚達に地味に苛められてたりしてます。 ので余計に丕様にフィルタがかかってきゅんきゅんしてたら良いです(うわぁ…)
 実は暗き冷檻〜とほぼ同時に書いたのでちょっとちまいが乙女過ぎたような。 丕様視点を書いた後に書いてたらもうちょっと違った……かな?



 20080615 海石