月夜の下で・後篇 「……、」 誰かが此方へと近づいてくる。 この様な所へ、こんな夜更けに来るとは全く酔狂な奴が居たものだ。 と子供は笑みすら浮かべていたが、次の瞬間には驚愕に戦慄くことになった。 「月を想って泣くか、それとも誰ぞ恋しき者を想って泣くか……」 廊下の暗がりから若そうな、しかし落ち着いた声がする。 その声に聞き覚えのある気がして、子供は目を見張った。 脳裏に浮かんだ声の主に、まさか幻聴だろうと一旦は打ち消したけれども、 やはり依然としてコツコツと近づいてくる足音はそれが幻聴でも何でも無い事を証明していた。 さほど時が経たない内に、斜めに差し掛かった月華へその人物が近づくにつれて、足下から存在が露わになっていく。 豪奢な具足、蒼い披風(マント)、着込んだ鎧、一つ括りにした長い髪、玲瓏な面差し。 どうして、と思わず呟いた。 『彼』がこんな所に居る筈がない。 しかし相手はそんな幼子の当惑に気付いているのかいないのか、ゆったりと口端を上げて微笑んだ。 「矢張りいたな仲達。まだ仕事をしていたのか?」 「……こ、うし……、」 眩い月光の下、現れたのはやはり曹丕であった。 そうとしか考えられなかったが、暫し思考が停止する。 だが、すぐに我に返ると、自分がどの様な場所でどう公子に対峙しているかに思考が及び、 袖で顔を拭うと慌てて降りようとした。 「っ!! これはお見苦しい所を……!」 「構わぬ、悪くはない」 しかし一方の曹丕は何とも悠然としていた。 本来ならば不敬極まり無い状態であったにも関わらず、 特に気にするでもなく欄干から降りようとしていた子供を押し留めて、距離を詰める。 身分があまりにも違い過ぎれば、大抵は幾らか距離を置いて接するのだろうが、 初めて会った時の事を考えてもこの公子にはその様な常識は通用した試しがなかった。 あまり格式ばった物を気にしない……というか好まないのかもしれない。 子供が気づいた時には曹丕が横にいた。 欄干に肘を置いて、子供の顔をやや下から面白そうに覗き込んでいる。 「しかし司馬防や司馬朗は、お前は風流を介さぬ堅物だと評していたが……とんだ見込み違いだな。 宴に出れば良かったものを」 「買い被りでございます……それに……仕事が有りましたから……、」 射抜く様に真っ直ぐ向けられた視線に子供は気まずげに視線を外して眼下に広がる樹木を見た。 宴に出られなかった理由を口にはしたが、意気もなく、ただ月に照らされて濃くなった緑陰の中に沈んでいく。 風流とは縁遠い事など今更で、曹丕の耳に入ってしまっている事は諦めがつくのだが、 仕事を定時に終わらせられぬ無能とだけは公子に思われたくはなかった。 しかし醜く言い訳するのも見苦しく、話題を転じる。 「公子様の方こそ、何故斯様な所に? 宴はまだこれからでございましょう?」 「あぁ」 まだ月は昇ったばかり。 月夜は明るく、酔い潰れるのにはまだ早い。 その証拠にこの月夜の下には楽の音に唱和する声、陽気に笑い合う声が響いて止まない。 子供の言葉に、ちろりと宴が在る方へ視線を向けた曹丕は苦笑を交えつつ肯んじた。 しかし同時に肩を竦めて溜息を吐いた。 「宴も良いが折角の望月だろう? 静かに愛でようと思ってな」 「左様でしたか……」 頷きながら、視線を伏せた。 確かにあの様に騒がしい宴では感傷に浸る事は叶うまい。 彼の父は豪快な作風の詩を作ると言うからそれでも構わぬのだろうが、 繊細な詩を詠むと評判の彼には流石に詩風に適う事は難しいかも知れない。 ならば彼は、何処か一人になる場所を探して、自分の居室なり屋敷なり、何処ぞへと行くのだろう。 これは、一瞬の邂逅であったのだ。 「…では、良い詩が浮かびますようお祈り申し上げましょう」 こみ上げた失望を露わにしないよう最大限に気を付けながら言葉を紡いだ。 曹丕を見上げて極力穏やかに見えるように微笑んで。 微笑むこと自体はそれ程難しい事ではなかった。 見上げた曹丕は酒精の為に少し纏う雰囲気が柔らかく、 以前会った時の頼もしい武将然とした姿とはまた違って良く見えたからである。 しかし正視することで更に失望が増したのも事実であった。 この公子と離れがたい想いが増すのに彼は行ってしまう、冷たい事実を突き付けられるだけであるのだから。 …微笑はこの心に歪まなかっただろうか。 微笑んだ形のまま視線を僅かに伏せた。 子供の心など容易く見透かすだろう曹丕の視線が怖い。 次は別れの言葉であろうか、ならば耳を塞いでしまいたいのだが。 そう思い、出来ぬ事に強く握り締めた拳を、そっと取る手があった。 開かせようとするのか指先で頑なに閉じられた指の狭間を何度も撫でられる。 触れるだけの手がとても熱く感じた。 「…公子さま?」 その光景から目が離せなくて呼ぶ。 武人らしい節くれだった指ではあったが、いつかの日のように心地良い。 「何だ、仲達。付き合うてはくれぬのか…?」 つれない事を言うてくれるな、と笑みを含ませて男が囁く。 初めこそ公子の他愛ない冗談であろうと子供は思っていたのだが、 さあ、と握られた手をついと引っ張られて漸くこの公子が本気で言っているのだと理解した。 「…どうした?」 だがやはり素直に信じられる程ではなく、 その子供が微動だにしない事が気になった青年が訝しげに声を出して子供の顔を覗き込んだ。 「…私…?」 「? おかしな奴だな。お前以外誰がいる。……それとも私といるのは嫌か?」 「そんな事は……っ!」 さも残念そうに口にされた言葉に、子供が勢い良く顔を上げる。 しかし次の瞬間には力無く俯いてしまっていた。 「……臣は酒も嗜めぬばかりか風流も解しませぬ……」 「あぁその事なら案ずるな」 曹丕の言葉に、僅かに潤んでいる瞳がその真意を伺う為に見上げてくる。 その茶の澄んだ瞳の縁に、重たげに睫にかかっている雫が一滴あった。 それを指先で掬い取ると、見せつけるようにして舐めとった。 「その涙と自然を愛でる心が有ればそれで良い。 それにこれも酒ではなく葡萄の果汁だ……これならお前も飲めると思ってな、誂えさせておいた。 …どうだ、此で文句はないだろう?」 曹丕が腕を掲げて、手に持った物を揺らした。 司馬懿の鼻先で素朴な色合いの水差しみたいな物が、たぷり、と音をさせて甘い匂いを放っている。 「…私のために…?」 曹丕が頷いて弧を描くように指の背で頬を撫でる。 「そうだ。付き合ってくれるか?」 「…嬉しゅうございます…、」 身分からすれば共にいてはいけないのに、と頭を過ぎるが、優しい声音に絆されて了承の言葉が口をついた。 やはり優しい御方なのだ、と。 嬉しさに顔が綻ぶのが判る。 一方の曹丕は、相伴の意を伝えた瞬間にくつくつと笑い始めた。 何もおかしい事を言ったつもりが無かった為、訳が分からずに見つめていると彼はその視線に気付いたようで、 「いや、嬉しいとは存外可愛い事を言ってくれると思ってな……?」 と、答えた。 それでもまだ意味が判らないような顔をしていたのだろう、 「『畏まりました』だの『御意』だのと味気ない言葉を想像していたのだが、な」 と付け加えてきた。 確かに子供は今まで、礼という常識を出ぬ態度と言葉を返していた。 だが、そんな身についた言葉よりも先ず口をついたのは、曹丕から是非にと誘われた事への喜びであったのである。 意識しないでも…するまでもなく口にした言葉は、己が如何に曹丕を好いているのかの証に等しく、 図らずも子供は本人の目の前で示してしまった。 「っ!?」 その頬が一気に染まる。 一方の曹丕は、その初々しい反応が気に入ったのであろうか、上機嫌に薄紅色の柔肌をまた一つ撫でた。 頬がいつになく火照って熱くて、指が心地よい温度であった。 「そうと決まれば、早く場所を移すか」 「す、少しお時間を。書簡を片づけねば、ッあ!」 急いでやらねば、と思ったからであろう。 それとも公子に本心が洩れてしまったからなのか。 座していた欄干から片足を引き抜き、跨ごうとしたところで体勢を崩してしまった。 反射的に掴む物を探して伸ばした細い腕は空を切り、背と頭を下にして落ちていく。 子供は、来るだろう衝撃を覚悟して強く眼を瞑った。 「……?」 「ふ……本当にお前は危なっかしいな……」 しかし衝撃はいつまで経ってもやって来なかった。代わりに公子の苦笑を滲ませた声が柔らかく頭上から降り注いだ。 尻と足が接したのは温く堅い床ではなく、もう少し温かく柔らかい感触であった。 腰にはがっしりとした何かが巻き付いている。 状況が分からず、強く瞑ってしまっていた瞼を恐る恐る開けてみる。 だがそこで目を見開いて固まった。その巻き付いている物が腕であって、 膝に乗せるようにして公子に抱き込まれている、と気づいたのである。 とは言え、まだ思考が追いつかず、公子の上から退かなければならないという事さえも浮かばなかった。 しかし緩慢に視線を巡らせている内に、自身のある一点に目を止めるや否や、慌てて背を向けんとした。 「っ!」 「……隠すな」 縋ったせいで露わになった手首は、月明かりのせいでより一層生白く細く弱々しく見える。 立派な士大夫たるもの、肌を見せる事は恥。しかしそれ以上に羞恥を感じたのは、その腕がまるで自身の弱さや愚かさ、 幼さを嘲笑うかの様であった事。 二重の、あまりの羞恥に慌てて隠そうとするも、公子によってそれは叶わなかった。 「傷は癒えた様だが……、以前より細いな……それに軽い」 彼が手を取ったばかりか、その細い手首に口付けたからである。 そんな筈はないと分かっていても、さも愛しげに口付けられて、自然体が震えた。 「病だとは聞かぬしな……仕事のし過ぎとは聞いたが」 苦笑する曹丕は窘める意味も込めて、心配をしていたのだぞ、と呟く。 心配など、と返そうとしたが、夜半になっても仕事をしていた身なので反論も出来ない。 ただ、あれから…曹丕に助けられた日から曹丕がずっと己の事を気にかけてくれた事実が信じ難い程嬉しくて大人しく頷いた。 「何にせよ、傷が残らないで良かった…もう痛くはないか?」 言葉がじんわり浸透する。 声が掠れそうで、代わりに頷く事で肯うと、公子がどこからか薄藍の練り絹を取り出して、そっと顔を拭ってきた。 その布が動く度に何の香りだかは判らないが、以前に長兄の伯達が友人に貰ったという小さな香木に似た、仄かに甘い香りが漂う。 「……泣くな」 「……こう、し……、」 「『公子』は止せ。弟達も『公子』ではないか」 彼は複雑な顔でそう告げた。 その表情に、ああ、と子供は脳内で頷いた。 大抵の男子は供養を絶やさぬ為に金が許す限り妻妾を娶り、多くの息子と娘を産ませる。 それは彼の父親もそうであり、寧ろ普通よりも盛んで曹丕の兄弟姉妹は両手の指よりも多かった。 故に、一概に『公子』と言われても個人を識別する呼称ではなく、いくらこの場には『公子』が一人しかいなかったとしても、 本人にとってはあまり快いものではないのだろう。 …かと言ってどう呼べば失礼にもならず、青年の要望に沿う事が出来るのかなどと考え付けない。 普段臣下同士で話す時のように、『何々夫人の何番目のご子息』だの『殿の何番目のご子息』だのと呼べる訳でもないのだった。 「……では、何とお呼びすれば……?」 「子桓、だ。そう、字で呼べ」 提示された代替案に、ふるふると弱々しく首を振る。 畏れ多い、とか細く口に出したが、駄目だと言わんばかりに抱き寄せる力が強まる。 「仲達……?」 強請るように大人の低く甘い声が耳朶に落とされる。 それが脳髄を犯し、背筋に痺れを走らせると、言われるがままにしてしまいそうになる。 「……お戯れを……」 一介の臣下にこうも気を許す筈が無い、と。 大人の身を離そうと胸に手を当てた。 だがそれを否定するように、その手を強く掴まれて取られてしまった。 「戯れなどでは無い。他ならぬお前だからこそ、字を呼んで欲しいのだ」 「私、だから…?」 「そうだ。お前だからだ」 震える声で訊くと曹丕が戸惑いも無く力強く頷いた。 でも、と公子を呼ぼうと呟きかけた唇を曹丕が指でそっと塞ぎ、 『子桓だ』と師父が子供に読みを教えるかの如く訂正した。 その顔には緩く笑みが刻まれていた。 「私を喜ばせてくれるな?」 「……し、かん…さま……、」 曹丕が何故、己に字を呼ばせるかなどは分からなかったが、青年を喜ばせられるなら、と恐る恐る口にする。 それは結果として聞き難いものになってしまったものの、それでも曹丕は嬉しそうに『良い子だ』と笑んだ。 「…子桓様……」 「今宵はよく泣くな……だが、それも悪くない……」 堰を切ったように子供の声が名を紡ぐ。 それを咎めずに、より近しくなった距離を喜ぶ青年に、涙は止めどなく流れてその視界が何もかも滲んで清光にぼやけた。 だが『この前の続きだ』と己の顎を掬い取った青年の姿だけは鮮明に映ったのであった。 終 - - - - - - - - - 月夜の下で・前篇 - - - - - - - - - - - - - - 更新滞ってすみません。 心の中で各方面に土下座しまくっている海石です。 久々の(?)ちまいなので、勝手を忘れた為かちょこちょこボロが出てなくも無い気が…。あう;; 実は、この骨組み(会話と流れの大体のメモ)を書いた日から3年経ってる事を先日気付きました。 どんだけ遅筆なんだっていう話です。 そういえば、前篇を跨いで5と5SP出ましたが、 うちのちまいもあの路線(謀反・反抗的)にした方が良いのかたまに悩みます。 ちまいの外観は4イメージなので…いっそ5ver.ちまいシリーズを書くのも有りなのかどうなのか…むむ。 世の中の丕司馬傾向が判らない…!(えええ) 2009/05/10 ikuri 戻 |