陋劣の箱、紺の瑛。後篇















「剣を納めよ。我が父の御前なるぞ。」



 言葉を放った瞬間には、彼を庇う様な位置に立ち、今将に振り下ろさんばかりに掲げられていた剣を、双剣を交差して受け止めていた。 耳障りな金属音が中空で響き予想だにしない光景に周囲にどよめきが走る。



「っしかし公子っ!!
 其奴は殿を」



 憤懣やる方無しといった男は、受け止められた事に驚きながらも力を緩める事はしなかった。 否、主の息子に手を挙げているなど、怒りに満たされた鈍い脳では未だ認識しきれていないのだろう。 体格だけは立派だが、やはりそれだけの男だったらしい。 武官の職を冠すれど、命令を即座に理解して実行せねばならない戦場では使えはしまい、と評せざるをえない。



「貴様、聞こえなかったのか?
 剣を納めよ……それとも我が命奪おうとでも?」



 キリ、と剣が鳴いた。 言葉とその音の意味に、余り馴染みのない面から血の気が引き、力の抜けたお陰で刃の合わせた所が小刻みにカタカタと音を立てた。



「その様な事は決して……、」

「下がれ。」



 早く退けば良いものを尚もそのままで言い募る。 苛立ちの侭に睨み付ければ漸く相手が動いた。 獲物ですら満足にしまう暇もなく慌しく男は消え失せる。 双剣を腰に戻しながら、その背が視界の端に消えるまで待ち、今度は壇上へと向き直った。 面倒だが次は此方を片付けねばならない。



「父もお忙しい身。この辺で茶番は止めませんか。」

「儂に意見するか?」



 明らかに不興を買ったか、顔は顰められ声が格段に重くなった。 鬱憤晴らしを中途で止められたからか、それとも他ならぬ己が止めたからなのか。 どの道考えるまでもない、と思い直した。 元より寵愛されたとは言えぬ身、愚かにも愛されたいと思っていた子供の時ならいざ知らず、今更父の機嫌を損ねた所で堪える事も失う物もなかった。



「差し出がましい事を申し上げました。
 しかし此以上彼を貶め、果ては死に至らせれば父の名こそが傷つき、此の先の魏には優秀な人材が来なくなりましょう。
 恭順の意志を以て一度頭を垂れた者には、礼を以て遇するのが道理にも叶い、最も得策かと存じますが。」



 後ろに庇う形となった子供が狙っただろう事を暗に諭せば、前方からは父と叔父が意を得た様で苦々しい顔が。 後方からは、ほう、と子供の感嘆にも取れる溜息が漏れ出た。



「……フン、珍しいな子桓。お前が庇い立てするとは。」



 子供の策を息子には見破れ、己には見破れなかった事を悔しく思ってか、私と私の後ろに居る彼を睨む。 名を貶めんとした事には触れぬ心算か。 重畳だ。 これくらい度量が広くなくては父として尊敬出来はしない。
 笑みを隠す為に無言で只拱手をした。 すると子供が量る様な視線を向けてきたのが背中越しではあったが感じられた。 今迄彼は誰も見ようとはしなかったが、 先程の溜息から推し量っても少なくとも私の事は見る価値のある者だと意識し始めたのだろう。



「……興が醒めた。行くぞ、元譲。」



 言葉とは裏腹に一瞬じっと此方を睨み付ける気配がし、それから叔父を促して退出する気配がした。 全く我が父ながら年甲斐もなくせっかちな男だ。 行かれる前に其の背に声をかけた。



「父よ、お待ちを。一つお尋ねしたい。」

「……何だ。」

「此の者を何処に配属されるお心算か?」



 問うた瞬間に周囲が無言ではあったがさざめいた。 何せあれだけの大立ち回りをやらかした上、此処で処断されかけた者。 首も繋がった今、どの地位に落ち着くかは私を含めて此処にいる誰もが気になる所であろう。 唯一後ろに控えたままの子供だけは気にする素振りすら見せないだろうが。



「……追って通達する。
 だがそうだな……。魏も斯様な凡愚が蔓延って困っておる故、司馬懿に思う存分其奴らを正させてみようとは思うのだが―――――のぅ司馬懿?」



 要するに飼い殺しか。 父の指す斯様な凡愚―――子供が嘲り罵った男共―――は確か記録か何かを担当する役職。 必要な役職ではあるが、才気を買われて招聘された彼が就くには値しない職だろうに。 やはり未だ仕返したりぬのだ。



「……。」



 子供はこの屈辱的な人事にどう対応するのか。 ふと後方(斜め下か)を見遣れば、予想に違わず不満そうに前を見据えていた。 断る心算なのだろう。 だが、何故か彼は一瞬だけ私の方を気遣うように見遣ったかと思うと、視線を伏せて考える素振りを見せた。 その姿を見下ろして、もしや、とその子供の逡巡に思い当たる。
 先程、曹操は己の名を呼んだ。 二人の兄が相次いで亡くなるという紆余曲折があったものの、一応今では曹操の長子として私の名前は多少知れている。 それは恐らく、田舎で隠遁していた子供の耳にも入っていたに違いない。 名前だけではなく、種々のキナ臭いお家騒動の噂と共に。
 曹操は、元服した長子(つまり私なのだが)に家督を譲ると明言することも、他の息子達と位に差をつけて暗に示すことも未だしていない。 故に、可愛さの欠片も無い私ではなく、彼が可愛がる弟達の何れかに家督を譲る可能性が十二分にある。 それが杞憂でも何でもない事は、曹操自身の常識に囚われない性格と、世間に流布している曹家の小話で裏付けされていた。
 子供は賢いから、もし此処で自分が断ったせいで私の面目を潰し、更には跡目争いに破れでもしたら、と瞬時に思い至ったのかも知れない。 長子が跡目を継がぬ事で起こる事など、この乱世だけでも存分に証明されている。 戦が起こり、国が滅び、跡目を争っていた者は死んでいく。 大体においてそんなところか。 しかし彼にとって国や戦はどうでも良い事であろう。 隠遁して尚且つ曹操を毛嫌いしているように見える彼が、魏や世間の動向に然程頓着するとは思えない。

 ―――――とすると、やはり私の事を考えてくれているのか。

 先程の視線からしてもそれは間違いではない筈だ。 曹操から庇ってくれたとは言え、初対面の男の将来を気遣ってくれるなど、大人顔負けの舌戦を繰り広げていたとは思えぬほどに存外にいじましい。 これがもし衆人環視の中では無かったら、すぐさま礼の一つは言っていただろう。 子供に微笑の一つでも添えてやって。



「……。」



 少し悩んだ末に、つと子供がいざり出て上座に姿が見える様に膝を付き深く頭を垂れた。 私の前に出る事がないように少し斜め後ろに位置を取ってはいたが、視線を巡らすだけで彼の様子が分かる。 腸が煮えくり返っていてもおかしくは無い筈でも、 頭を垂れる前に垣間見えた顔は良く感情を抑えていて一応は厳粛な面持ちを保っていた。 にも拘わらず瞳に不穏な光を宿して上座を睨み付けていた不遜さは、父にはやはり気に食わぬ類の者に違いない。



「……フン、精々役に立って見せるんだな。」



 捨て台詞めいたものを残したかと思うと、 苛立ちを隠しもせずに、叔父を引き連れて父親が背を向けた。 心底子供の行動が気に食わなかったのであろう。 有る意味、敗北めいたものも感じていたのかもしれない。 子供は自分の置かれた立場に屈し、最後こそ曹操に頭を深く下げてはいたものの、遂に恭順の言葉を吐く事は無かったのだ。



「ふ……」



 思わず失笑が漏れた。 父が退出済とあれば不興を買う事も無い。
 子供が身を起こす頃には広間は随分と軽い雰囲気へと変わっていた。 退出していく高官達を後目に下座の方がざわめいてくる。 余り良く聞き取れはしないが殆どが子供に対する嘲笑も含んだ中傷の様で、 子供はそれに聞き入るかの様に相変わらず無愛嬌のままに周りを蔑む目つきで対峙している。 唇を噛み、拳をきつくきつく握り締めて。
 知っているのだ、あの中に味方がいない事を。
 賢しい子供はだが所詮未だ幼さの残る子供。 今は睨み付ける以外為す術も無く、頼りなげに唯一人で立ち尽くしているに過ぎぬ。
 あぁ、あれは、まるで―――――……



「さっさと仕事に戻るが良い。
 ……耳障りだ。」



 浮かびかけた思考を打ち払うようにして、無能共を追い払った。 ぎり、と苛立ちのままに睨みつけていると、虫もこうは行かないだろうと思える程にこそこそと無能共が失せていく。



「……、」



 そうしていると、不意に見られている気配がした。 案の定、随分下の方から、黒の双貌が私を真っ直ぐに見据えてきていた。 何故自分を庇ったのか、何故まだ此処にいるのかと言わんばかりに注がれていた視線。 私のとかち合った瞬間にうろたえて刹那揺らいだが、じっと強く見ているとしっかりと見返してきた。



「……お前は残れ。少し話がしたい。」



 少し虚を突かれた風に彼が眼を見開く。 ぱちぱちと瞬きをし、何か言いたげに唇を戦慄かせた彼は、先程の遣り取りが嘘の様に存外稚かった。

 ―――――果たして、この広間に居た者の誰が、彼のこんな表情を知るだろうか?

 漸く子供らしい年相応な表情を見られた事に、少しならず優越感を抱きながら心中で一人呟く。 そればかりか、僅かに頬を上気させた子供から小さく諾いを得た時には、自然口端があがっていた。
 眼下で彼は、扉から出て行く大人達をちらちらと窺っていて、落ち着きの無いように見える。 そのそわそわとした彼の様子が、如何にも期待していると言わんばかりで可愛らしかった。 きっと彼は、あの父親とは違って、私の事を多少なりとも気に入ったのであろう。 それがどうしてなのかは、彼に聞かない限り当然判らないのだが。
 だとしても。

 ―――――この後の時間は楽しいものになるだろう。

 それだけは、はっきりと理解出来たのであった。










 終





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陋劣の箱、紫紺の瑛。前篇 - 暗き冷檻、一条の蒼。(ちまい視点)
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 丕様視点でちまい救出。 後篇のちまいは、ちまいが自覚している以上に、丕様に何か芽生えちゃってる可愛らしい(?)様子が。(死)
 丕様も丕様で、ちまいに興味津々。(色んな意味で/死) これから、ちまいの数少ない味方として色々ちまいを構い倒して愛でまくります。 次作(この後の二人きり編)から既にそんな様相を呈していたり……。

 そういえば、このシリーズ書く時、無駄にネットで調べ物したりとか、卒論資料と称して丕様の資料を収集したりして、 参考にしております。 パラレルなのにそんな手間が必要なのは矛盾でしょうか……。




 2007/08/02 海石