暗き冷檻、一条の蒼。後篇・二 「公子、こちらにいらっしゃいますのか?」 「っ!!」 声のした瞬間、急に現実に引き戻された。 私を囲う、温かな彼の腕を振り切り、距離をとる。 曹丕に抱き寄せられていたのが気恥ずかしかったのか、それとも微妙な情況を誰かに見咎められかけたせいなのか、 心臓が煩く鳴っていた。 「―――――何だ」 会話を邪魔立てされたからなのだろうか、立ち上がった青年はやや苛立ちを込めた声音で応え、声のした方へと視線を遣る。 それは王座の方に設えている扉の方角で、先刻は曹操らのみが通った場所であった。 その為だろう、警戒の色も浮かべていた青年は、そちらから私の姿が見えぬように位置を変える。 青年の影で見えなくなってしまったけれど、倣うようにして私も顔を向ける途中、 視界の端に彼が強く拳を握ったのだけはちらりと見えた。 「お話中に申し訳ございません。 主上が公子をお呼びでございます」 「……判った。 すぐ、行く」 どうやら現れたのは曹操付きの侍従の様であった。 曹操からの使者だと判ったからか、公子はすっと苛立ちを収め、いっそ無表情のまま淡々と答えていた。 たかが私との会話を邪魔されたくらいで青年が苛立ちを覚えた理由など、私如きには理解しようもなかったのだが、 よく見れば彼のその冷静さは許したからでは決してなく、ただ隠しただけなのだと何故か感じ取れた。 「……すまぬな。名残惜しいが時間切れだ。 面倒だが行かねばならぬ」 「……その、ようで」 じっと見ていたら、気付いたらしい彼は私を見て口を開いた。 残念そうに零された言葉へ答えた拍子に、 先程まで何をしていたか……寧ろ一方的に為されるがままであったことが思い出されてしまい、 気まずい思いが湧いてきてしまい自然俯いてしまう。 そうすると、折角公子が間近にいるというのに顔も見えなくなって少し残念な想いに駆られた。 父親に呼ばれた以上、今すぐにでも公子はいなくなってしまうのだから。 「……あぁ、忘れるところであった。 司馬仲達よ。ついでだ、腕も貸せ」 「え?」 だが予想とは違い、公子はすぐに立ち去りはしなかった。 その代わりに、 ―――――何故、腕を? と、そう思う間もなく、再び腰を下ろした公子は袖の上から柔らかく手首を掴んで、自分の方へ引き寄せた。 「っ!!」 瞬間的に瞼を強く瞑って悲鳴を耐えた。 公子が掴んだ場所は手首のやや上方。 丁度、付けられたばかりの傷の上であった。 そっと包むようなごく軽い力で握られたとは言え、擦り切れていた皮膚は鋭く痛み、その衝撃に身体が強張った。 「っ、すまぬ」 単に短慮だったのか、それとも公子が考えていたよりも、傷は上の方にあったのだろうか。 謝罪を零した彼は素早く腕から手を離し、下から手を取るように持ち替えると優しく背をさすってくる。 そうしながら私が纏っていた衣の長い袖を捲り、腕に残る幾筋もの赤い傷と痣を晒した。 苦痛を与えたことに申し訳なさそうな表情をしていた公子は、醜い傷を見て一瞬息を飲んだようだった。 「……酷い、な……。 大方、足もだろう……」 眉を顰めた彼が苦しげにポツリと零す。 確かに見た目は悪い。 大人しく捕まっておけば、ここまでにはならなかったのだろう。 だが荒縄で縛られた際には何とか逃れようともがいたり、 捕まってからも散々抵抗を繰り返したせいで余計に傷を負ってしまったのだ。 最悪な事に手当もされぬままでいた傷は酷くなっていた。 明るい陽の下で初めて見た傷は、乾いておらず未だ生々しくて、自分の身体だと言うのにおぞましく、 見ているだけで捕らえられた時の事を蘇らせる。 いつも通りの1日の終わり。 粗末だが寝心地のよい寝台。 ……暗がりに蠢く嫌な気配。 身の危険を感じた瞬間、塞がれた口、のしかかる男の身体。 もがく四肢は寝台に押し付けられた。 抵抗も虚しく縛り上げられて、袋に入れられた。 衿持を踏みにじられる怒り。 その感情を上回るのは、知らない者に乱暴を働かれる底知れない恐怖。 ―――――身体中の血と体温が一気に下がった気がした。 「嫌…ッ!」 「……、」 鮮明に蘇った記憶に身体が震え、今度こそ押し殺せなかった悲鳴が漏れた。 今更のように襲った恐怖は、酷く凶暴に心を傷付けた。 じわりと一瞬滲んだ視界に、相手は気付いたようであったが、 からかうでもなく、言及するでもなく、ただ黙って親指で目の縁を拭っただけであった。 それから背に腕を回し、そっと抱き寄せてきて、その他者の温もりに私が思わず身を強張らせてしまうと、 ぎこちないが優しい手付きであやすように背を叩いてくれた。 とん、とん、と、心臓の音にも似た緩慢に刻まれる調子に、恐怖が少しずつ薄れていくようであった。 「落ち着け、もう大丈夫だ」 「……っ…」 公子から見て、私は余程怯えていたのだろう。 背を叩いてあやしていた手が、いつしか背を柔らかく慰撫していた。 大人の手はとても暖かく、恐怖で冷たく強張っていた体が融けていく。 そのお陰で彼の言葉通りに落ち着こうと深く息を吐いてみれば、随分と固いばかりで重苦しかった体がずっと軽くなっていた。 とは言え、簡単に恐怖が去る訳もなく、まだ微かに指先は震えていた。 「……しかし、酷い傷だな……。 このままではお前も辛いだろう」 血の気を失って冷たくなった白い指を、公子が己の手で包むようにして取ったかと思うと懐から何かを取り出した。 それは小さめの月餅の様な丸い姿と大きさで、表面に見事な細工をされた翡翠色の玉(ギョク)の固まりであった。 しかし、差し出された物が何か、またそれをどうすれば良いのか判らなくて首を傾げた。 「……これは……?」 「薬丹だ。 傷によく効くのでな、私も愛用している。 使いかけで悪いが…これで、多少は楽になる筈だ」 彼はそう言うと有無を言わさず、その翡翠を握らせてきた。 ……今ここで使え、と言う事なのだろうか……。 そう思いながら素直に薬丹入れを自らの意思で握りしめると、それを見てまた機嫌良さそうに微笑を浮かべる。 「お前にやる。 だが今は生憎、これきりしか持ち合わせておらぬ。 後で誰ぞに新しい物を持って行かせよう」 「その様な畏れ多い事……!! これしきの傷など、何とも有りませぬ!!」 「ほう? 父に楯突いている時も一度ならず痛みに顔を歪めていたのにか?」 「……、」 玉を突き返そうとする手を押し留めながら言えば、図星をつかれてしまい息を飲んだ。 どうしてこの公子はこうも私の事を見透かすのが巧いのだろうか。 「良いから、遠慮せずに詫びと礼の代わりだと思って取っておけ。 中もだが外身も中々に良い品だぞ。 使いきれば売るなり人にやるなりすれば良い」 彼は玉を握らせていた手に一瞬力を込めると、ゆっくりと立ち上がった。 包むように回されていた温かな腕も離れてしまい、急に寂しくなる。 名残惜しげに長い指が肌を一撫でしていく。 指先が、一瞬の事のはずなのにゆっくりと離された気がした。 「……礼……?」 曹丕の言葉の意味が分からず、姿を仰ぎながら問う。 記憶の限り、先程見えたばかりの彼に礼を言われるような事など何一つしてはいない。 逆に、礼を述べねばならぬのとしたら此方であるのだから。 「そうだ。父から任官を受けた時、衿持を曲げてまで私を庇ってくれただろう?」 そこまで見透かしていたのか。 もう幾度目かになる驚きと感嘆の想いが湧き出る。 確かに己は彼の将来を慮って曹操に膝を屈したけれど、その様な素振りを見せた記憶は決して無い。 恩に着せようなどと下心なんかさらさら持ち合わせてなど無かったのだから、当然見せるつもりも無かったと言うのに。 「そんなこと……私こそが……」 「律儀な奴め。 ……ならば、礼を受ける代わりに大人しく受け取ってはくれぬか」 もごもごと返す言い訳を探していると、穏やかな声がねだるように言う。 そこまで言われてしまっては、最早返すなどあまりにも失礼過ぎて、根負けした形で仕方なしに頷いた。 感謝の意味を込めて頭を下げる。 「有難うございます。…大切に、致します」 「ふ…そうだな、大切にしてくれると嬉しい」 頭上で公子は小さく笑ったようであった。 何故笑うのか分からなくて、彼の表情を見れば何か判るだろうかと頭を上げると、 茶色の瞳が柔らかい色を浮かべていて。 それに私は驚いてしまって、何なのかははっきりと分かりかねたのだけれど、 心臓が跳ねたような胸が苦しくなったような妙な心地になった。 これ程情の深い公子を冷血、冷酷だと噂した奴は、何を見てそんな流言を流したのだろうか。 確かに整い過ぎた顔立ちは冷たい印象を受け易いかも知れないし、口調も誇り高さと自負から尊大な印象を受けるかも知れない。 だが。 もしこんな眼を、見目も名声も慈悲深さだってある公子に先程のようにすぐ間近で向けられたら、 ……否、間近で無くても誰だって公子に好感を持つに違いないと思うのに。 世の中…特に曹操はおかしいのではないだろうか。 礼節や道義を弁え、教養や武芸にも堪能し、更に曹丕は若いながらも仁君の相まで持ち合わせているのだ。 私の父は、曹操こそ覇者だ見込みがあるなど賞賛していたが、私には彼の方が余程良く見える。 「……だが、」 「……何でしょうか」 公子の姿を見詰めながらそんな事ばかり思っていると、公子は声を心持ち低くして私に何か告げようとしていた。 自然緊張に背筋が伸びてしまったのだが、 呆けていた思考を正し、曹丕の言葉を待つ。 「そんな物よりも、お前が自身の身を大切にする方が私は嬉しい」 「……私の身、でございますか?」 「そうだ」 公子が頷いた。 手を伸ばすと、擽るように私の頬を一撫でして、お前の身だ、とまた告げる。 「先程、言っただろう? お前自身が何と思おうとも、私はお前の才が惜しいと」 「……はい」 「お前は少々向こう見ず過ぎる。 身を守る為に、今後は行動にも気を付けよ。 あの男は…曹孟徳は我が父ながら少々厄介で執念深いのでな……先刻の沙汰では気が済まなかろう」 確かに、と去り際の男の姿を思い浮かべて溜息が漏れた。 余程私は嫌そうな顔をしてしまったのだろう、公子がくつ、と喉奥で笑った。 「しかし、私に今更どうせよと…?」 「何もせずとて良い。 暫く大人しくしている事だ。 傷の養生でもしながらな」 「……服従せよ、と仰るのですね。 生きる為に頭を垂れよ、と?」 「そうだ。矜持は地に堕とさずとも、な……」 頷く大人の低い声を聞きながら、しかし、『出来るだろうか』と弱気な事を思う。 嫌いな相手に頭を下げ、愚かな連中に諾々と従うなどと、終わりが見えないままにずっとだなんて。 不安に目線を泳がせていると、相手は迷いの無い目で此方をじっと見詰めてきた。 それは、力強い……私に対する信頼を垣間見せていて、促がされるように思わず頷いてしまった。 すると穏やかな声が、労わるように、諭すように注がれる。 「文学掾の仕事なぞお前にはつまらぬかも知れぬが……何、少しの辛抱だ。 それに、閑職とて学ぶ事はある。 何れ使うだろうお前の爪と牙を研ぐ時間だと思えば我慢出来よう?」 そこまで言うと、まるで何もなかったかの様な潔さで、青年は踵を返した。 だが幾らか歩いて立ち止まると、立ち尽くす私へと肩越しににやりと笑って口を開く。 「……期待している」 急な事に何て返すべきか迷っている内に、公子は歩き出した。 長らく待たされていた従者が『お早く』とでも言ったのだろうか。 彼は扉の前で苛立たしげに二言三言交わすと、あっと言う間にその背は扉の先へと消えてしまう。 忙しげにはためく蒼く長い披風も最後にひらりと大きく舞い、残像だけを視界に残していった。 終 - - - - - - - - - 暗き冷檻、一条の蒼。前篇 / 後篇・一 - 二 - 三 - - - - - - - - - - - - - - 前半はややシリアス(<そうか?)仕様だったのに対して、何ですかね後半は…。 下心も無い訳では無いんですが(ぇ)、 純粋な好意の方が勝ってる丕様にちまいも気になってる感じを書きたかったんです……達成されたかどうかは別にして。 てゆか見た感じちまいの丕様って、 『格好良い所を見せつけ(第一印象重視)、自尊心をくすぐり(褒め殺し)、ドキドキさせ(釣り橋効果)、優しくする(仕上げ)』 篭絡四連コンボが素で使えそうですよね(他人事/死) ちまいの為なら、そそ様付きの従者(+そそ)を待たす事だって平気でいて欲しいです。 あ、余談ですが。 丕様視点書こうと思います。 前編で『要望が有ったら丕様視点書きます』とか呟いたら、心優しい方がお一人、希望して下さいましたので…(ほろり) 有難うございます(平伏) 丕様が極力変態にならないように頑張りますね!(待) 20080229 ikuri ↑どうしても四年に一度の日に更新してみたかった! 戻 |